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 助かる。
 八代は弘の部屋の隣室で着替える。階下に行って顔を合わせれば、学校にいるときとまったく変わらない『いつもの柘植サン』が出来上がっている。
 でもって彼女は朝から白飯と味噌汁をそれぞれ二膳ずつ食べ、どう見ても一人前とは思えない量のおかずをぺろりと平らげて昼食用と早弁用の弁当箱を(たずさ)え、意気揚々と学校に向かうのだ。
「お茶にしましょうか。そろそろ博さんも帰ってくるから」
「え、」
「ん?」
「そんなに寝ていましたか」
 時計を見ると、六時になろうというところ。
 ――昼寝一時間。
 雅はあははと首を傾げた。
「どうかなあ、私が帰ってきたのついさっきだしね。一時ものすごく雨足が強まったからね、ちょっと時間(つぶ)したの。そしたら見事にバス逃したわ。電話入れたんだけど誰も出なくて。気がつかなかった?」
「……はい。まったく気がつきませんでした」
 よく寝てたのね、それはよかった、と雅は明るく笑う。
 そうなのだろう。電話に気がつかなかったのだ。同室にある、あんな自己主張の激しい音に気がつかなかった。
 雅から上掛けを受け取って、弘にかけてやった。相変わらず熟睡している平和な顔からするりと眼鏡を抜き取り、つるを(たた)む。ポケットからハンカチを出して、その上に置いた。
 雅がふふ、と笑う。
「ありがとう」
「何がですか?」
「今、弘にやさしくしてくれたわ」
 無意識だった。
 無自覚にやった。
 弘がいつも、就寝前にそうしてくれるからだ。それを見ているから、身体が勝手に彼女を真似た。
 眼鏡を外したら、丁寧に折った眼鏡拭きの上につるを畳んで置いてくれる。
 ――恥ずかしくなる。
(うつむ)いちゃだめよ、八代君。こういうときは、どういたしましてとか、このひとを好きなのでやさしくするのは当然ですって胸を張るもんよ」
「後者は難しく思います。少なくとも僕にとっては」
「きみほんと正直よね」
 そんなことを言うのは柘植家の人間だけだ。八代だって、こんなに心情をそのまま吐露(とろ)している自分に驚く。ほかではやらない。
「私としては後者だけどね。I'm happy to help.とかYou are most welcome.が好きよ」
「キウイ……でしたよね」
「ベースはね。でもいろんなところ行ってるからね、(なまり)云々(うんぬん)以前の問題よね。フレンチ? って訊かれたかと思えばアイリッシュアクセントだねって言われて、そうかと思うとドイツにいたのかって言われるの。私の英語一体どんなふうに聞こえてるのかしらね、謎」
 またあははと快活に笑うものだから、八代も苦笑してしまう。
 雅には放浪癖があるらしい。一ヶ月二ヶ月いないなどざらだそうだ。観光というより、本当に言葉どおり放浪しているようで、フランスに行くと言っていたはずなのにチリにいるのだとか、どうなっているものやら知れない。一度帰国してそのまま今度は別の国。ひとは見かけによらない。雅は実にアクティブな大和撫子だった。
 それでも、弘が中学校に上がるまでは、雅はどこにも行かなかったそうだ。学校から帰ってきた弘におかえりなさいと言って、学校であった楽しかったことや嬉しかったこと、哀しかったこと、弘のそんな話を聴くためだけに留守にはしなかった。
 そういったことをめいっぱいしてもらったからなのか、中学に上がってから雅がふらっと出かけても、弘は寂しくなかったらしい。
「ご迷惑でなければ、お茶を()れさせていただけませんか。コーヒー以外でしたら……それなりの味を保証できます」
 雅は少し驚いた表情をした。
 ――驚いた――のではない。八代が自分から何かを言い出し、進んで「やる」と言って、ある程度の水準を自己申告したから、珍しいと思ったのだ。
 雅の感情の表れ方は素直だ。弘より経験値が高いぶん穏やかで、オブラートに包む方法も知っているのだろうけれど、それでも素直だ。
 弘を起こさないように気をつけながら立ち上げると、雅はゆったりと笑んだ。
「お茶は好き?」
「はい」
「コーヒーは苦手なの?」
「はい」
「ほんとわかりやすくていいわ、会話がさくさく進むから。書き置きどおり練り切りを買ってきたんだけど、何を淹れてくださるのかしら、ムッシュウ・道徳家(moralisateur)=H」
「……道徳家に見えますか」
「それ以外にはちょっと見難いね。非道徳的な行為をしてきたの?」
「はい」
 雅は八代に会話しやすくていいと言ってくれるが、八代も雅の質問は答えやすい。彼女はイエス・ノーで答えられる質問の仕方でもって(たず)ねてくれる。
 自分から満足に口も開けないのに、曖昧(あいまい)な質問をされても答えられない。それに、誤魔化(ごまか)しはぐらかしはするものの、本来の八代は質疑応答ははっきりしたものでないと座りが悪くて気持ちが悪い。
「正直よねえ好感度大よ。よくもまあ括弧(かっこ)仮とはいえ未来の妻の母親前にしてはっきり言えるもんだわ。素晴らしい」
 素晴らしいのだろうか。マイナスを肯定したのに。
「非道徳的だって自覚があるならたいしたもんよ。道徳を知ってなきゃそうでない道には走れないから。しかもそれを告白できるんでしょう。お節介(せっかい)なこと言うけどきみはもっと自己評価上げた方がいいよ」
「……ありがとうございます」
 本当に――
 ――不思議な家族だ。
 強引に柘植家に引きずり込まれ、強引に宿泊を決定された夜、八代は不眠症を告白した。
 弘が一緒に休みましょうと言ってくれて。
 キスをくれて、――悪い夢から守ってくれた。
 本当に、悪夢は見なかった。ベッドをあたたかいと感じたのははじめてだった。隣に眠る弘がぬくもってやわらかく、安堵(あんど)して、そしてはじめて安らいで眠った。
 寝坊した。
 寝坊。
 はじめての体験だった。この家にはわからないことと知らないことしかないと思ったが、自分自身にもよくわからない変化が起きる。
 寝坊といっても、もともと八代の朝は早いから、なんの問題もない時間だ。朝の六時半。でも八代には衝撃的だった。
 だって五時に起きるのだ。眠れない以上起きるというと語弊(ごへい)があるが、とにかく八代の一日は五時からはじまる。それが六時半。一時間半も何をしていたのだろう。
 もちろん寝ていた。
 明るくて目を覚ました。八代の部屋は分厚い遮光カーテンだから、朝陽が直接顔に触れてくることはない。日当たりはいい部屋だからカーテンを閉め忘れたのかと思ったが、そもそも寝室のカーテンは自分で開けたことがない。触れた記憶もない。
 どこにいるのかわからなかった。
 天井が白いのだ。やさしい朝の光を受けて、ほんのり発光しているようなやわい白。偏頭痛もない。夜、目を覚ました記憶もなかった。気を失えたのだろうか、と思った。
 でもそのわりには気持ちがいい。身体があたたかくて、なんだかふわふわする。それなのに――
 ――何故か身体が固まっていた。
 なんのことはない、狭いシングルベッドに無理矢理ふたりで寝たから、しかも八代はそんなことをした経験がないから身体が()っただけだ。
 けれど思考はそこまで行き着かなかった。
 しばらく、ぼんやりしていた。
 それから――
 ――おかしい。
 急速に意識が()えていって、そうしたら、隣からのほほんとした笑みの声が聞こえてきたのだ。
 ――久我先輩、おはようございます。
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