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 まだ枕に頭を乗っけたまんま、八代の顔を(のぞ)き込んできた弘はしあわせそうだった。
 ――きもちよくおやすみできましたか?
 それですべて思い出した。
 そして一気に身体が熱くなった。
 ――信じられない。
 他人の家で、他人と同じベッドに寝て、しかも寝坊するほど熟睡した。
 ――寝顔を見られた。
 思わず片手でくちもとを覆った。弘はぽよっとしてわかっていない様子だったが、あのとき八代は赤面していた。
 がばりと起きて、壁側に寝ているから後退などできない状態なのに、それでもなんとか距離を取ろうとして背中を壁にくっつけた。
 ――おはようございます。
 八代と一緒に寝たことなどなんの意識もせず、寝癖がついていつも以上にぴよぴよしている濃い茶の髪を揺らして、弘は繰り返した。
 八代といえば絶句で驚愕で半ば恥辱だった。
 寝坊したのだ。弘は顔を覗き込んで言ってきたから、先に目を覚ましはしたものの、八代をそのまま寝かせてくれていたのだろう。起きるのを待ってくれていたのだろう。
 一緒に寝ているのに、ひとりぼっちになったら寂しいから、だから一緒にいます。
 眠る前、ベッドの中で八代を抱きしめてそう言っていたから、一緒にいてくれたのだろう。約束どおりに。
 ――先輩もおはようっておっしゃってください。
 にこにこしながら(うなが)され、逃げ場なく応じた。ひどくぎこちなく。
 心臓に悪い。
 眠れたけれど、朝からこんな衝撃を受けていたのでは疲弊(ひへい)する。
 でも、このあと決定的な衝撃を受ける理由をつくってしまったのはほかならぬ自分自身だ。
 武装を明確に意識して眼鏡をかけ、身支度をして、それですませばよかったものを、寝坊と寝顔のダメージが大きすぎた。しなくてもいい質問をしてしまった。恐らく、否という返事に()けたのだ。
 負けたが。
 ――柘植サン、俺が寝てるとこ見てたの?
 ――はい。先輩よりも早く起きてしまいましたので。
 ――……寝顔、見てたの?
 ――見ました。見ていたというよりも、目に入ったのですよ。先輩はお眠りになっているときはあどけないお顔なのですね。
 印象まで言ってくれなくていい。
 むしろ言わないでほしかった。
 あどけないなんて言われても嬉しくないし、寝ているのだから確認のしようもない。
 弘はふふふと嬉しそうに笑っていた。
 荷物分本当に二日間宿泊した。
 二日目の夜も眠れた。穏やかに。心はずっと静かだった。
 それで――
 いつでもおいで、と言われた。
 睡眠を取れなくて体調がよくなることはないから、と。
 弘と一緒に眠れたから、弘と一緒にならぐっすり眠れるんなら、そうするといいと言って。
 強制はされなかった。
 強引に押しきられることもなかった。
 ――弘を大切に思うように、きみも大事だから、怖がらずに頼って。
 どうしてそんなふうに言われるのか、言ってもらえるのかがわからない。柘植家にはわからないことしかない。
 礼は、言った。
 戸惑っていたぶん声も躊躇(ためら)った色だったけれど、言った。
 そしてマンションに帰って――
 ――足が(すく)んだ。
 こんなところで寝るのか。こんな広い、無駄に部屋数の多い暗い場所にたったひとりで。
 あんなに大きなベッドに、たったひとりで。
 駄目だ。
 いつでも来ていいとは言ってくれた。博と雅のことだから、社交辞令ではない。それはわかる。でも駄目だ。行けない。
 そんなふうに甘えていいはずがない。
 室温を調整しカーテンを開け、日が落ちれば明かりを()けた。それなのに。
 眠れなかった。
 ベッドの上に四肢を投げ出し、呆然とした。居場所がわからない。
 八代のほかには誰もいない部屋だ。どこに行っても八代しかいない。だからすべてが八代の居場所だ。
 そのはずなのに居場所がない。
 何かに追い立てられている気がする。
 出ていけと。
 おまえはここにいてはいけないのだと。
 ――そのまま目を覚まさなければいい。
 ――死んでしまえばいい。お前の左目は諸悪の根源だ。
 (はさみ)が。
 あの銀色の。
 安っぽい鋏だ。
 使えば切られた紙の方が(いた)んでしまう粗悪品。
 ふり下ろされる。
 ――死ね!
 (こら)えようもなく嘔吐(おうと)した。胃の中にあったすべてを吐き出しても収まらず、胃液まで吐き、身体が痙攣(けいれん)して痛むほどになっても止まらなかった。
 眠れない。
 わかっている。
 恐怖から、不安から逃れられない。居場所がわからない。
 養父から与えられた場所だからだ。
 八代のものではない。八代が望んで手に入れたものではない。
 何故養父は自分など引き取ったのだろう。裏切ったかつての妻と似た顔立ちの、裏切りに加担していた男の左目を持つ子どもなど()まわしいだけではないか。
 眠れない日が続いた。
 眠れることを知ってしまったから、眠りがあたたかいものだともう知ってしまったから、部屋の暗さやベッドの冷たさが以前よりずっと鋭く突き刺さってくる。
 何を食べても吐いた。
 数日間隠した。いつもどおりの自分を演じられたと思う。けれど弘はきっと最初から気づいていた。
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