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 気を失うのを待つ日々に戻っても、黙っていればいい。隠しとおせば嘘も真実になる。
 弘は許してくれなかった。真実にさせてはくれなかった。
 ――先輩、一緒に帰りましょう。一緒におやすみしましょう。
 やさしく微笑んで、八代の嘘を暴いた。
 逃がしてくれないのは先刻承知だ。おとなしく従って訪れた柘植家、八代を見るなり雅は叱り飛ばしてきた。
 渡り廊下一本を通って帰ってきた博に(たしな)められた。
 そのあとあたたかい食事を出され、まるで当たり前のように箸置きが用意されている席に座って、いただきますをした。
 吐くかもしれないと怯えたのに、嘔吐感すら湧かなかった。
 ベッドの中で弘がキスをくれて、彼女の胸に抱きしめられて、窘められて心配されて、またキスをもらった。
 少し――ほんの少しだけだったけれど、泣いたような気がする。
 一応自宅には帰る。住めとは言われていない。
 でも、一週間に二回ほど弘に一緒に帰りましょうおやすみしましょうと連行されるから、ほとんど入り浸っているも同然だと思う。
 いきなり強引にはじめての宿泊を余儀なくされて自宅に戻った日、信じられないほど眠れなくなった上にものも食べられなくなった八代は、弘の誘いを断るのを放棄した。抵抗できる口ではない。反論のしようがないのだ。柘植家にあっても眠れないのなら話は別だが、柘植家では眠れるのだから余計に何も言えない。
「八代君はお茶では何がいちばん好き?」
「抹茶です」
 正直に答えたら、薬缶(やかん)に水を入れている雅が一度ぱちりと(またた)く。それから静かに笑った。
「それなら今度()てていただける? 茶道具(さどうぐ)だけならあるから」
「はい。……喜んで」
 少し躊躇いながら、でもなんとか「喜んで」まで言って首肯すると、雅はやさしく微笑んだ。ありがとう、と言って。
 ――何かしてほしいって頼んだとき応じてくれるなら、喜んでって言ってくれるとうれしいわ。
 雅にそう言われたから。
「でもまあ今日はとりあえず別のものをお願いしようかしらね。かまわない?」
「はい。お好みのものをお淹れします」
 薬缶を持ったまま、雅は再度ぱちりと瞬いた。
「……八代君ってもしかして天然のたらしなのかしら。こういう言い方は好きじゃないけど、日本人男性が意識せずにさらっとそういうこと言うのにかち合ったのたぶんはじめてだわ。しかも高校生」
「ご不快でしたか」
「いいえ全然。うれしいわ、ありがとう。お茶についてはベタつまり王道な緑茶をオーダーします」
 キッチンは好きに使って。と差し出された薬缶を受け取り、火にかける。天然のたらしなんて言われたのははじめてだった。八代だって、もちろんたらし込もうとして口にしたわけではない。意識することもなくほぼ無意識に(こぼ)れた言葉だった。
 ああいう発言はたらし込んでいると思われるのだろうか。
 考えたこともなかった。八代は他人にも無関心だが、同じくらい自分自身についても無関心だ。今は違ってきているけれど、これまではそれでしかなかった。
 茶葉の場所は知っている。弘がいつも茶を淹れる際の手もとをなんとなく見ているから、覚えている。湯呑(ゆのみ)の場所も。
 好きに使えと言われたから、躊躇(ちゅうちょ)せずに手を伸ばした。いちいち確認を取ったら、雅はきっと、好きに使ってと言ったわ、とかなんとか言って八代を突き放すに決まっている。
 茶の温度が下がらないよう湯呑をあたため、きっちり量った茶葉を急須(きゅうす)に入れる。
 八代の手もとをじっと見つめている雅が感心しているのが気配でわかった。
 感心されるのもはじめてだ。
 弘は八代の手際のよさより先に味を知ったから、お茶の淹れ方が上手でおいしい、と非常に大雑把な(くく)りで(とら)えている。大体にして茶を淹れるのは部活の休憩時間、八代がテーブルの用意をしているとき、彼女は作業中だ。手もとを見ていることはほとんどない。
 柘植家はいつも不思議な感覚がつきまとう。
 決して不快ではない、やわらかな不思議が。
 八代が柘植家に頻繁(ひんぱん)に行くようになった理由は弘や彼女の両親だけが理由ではない。実質的に、囲われてしまった――といったところだろう。
 追い詰めるのは得意だがここまで追い詰められたことはない。複数人に囲まれて固められたのははじめてだった。



 二日間に渡る柘植家の宿泊から解放されて、――眠れない日々を過ごしていた。そのあと弘に嘘を暴かれ、少し、今に比べれば本当に少し、泊まる日がある、という程度の頃。
 昼休みに温室へ行くと、中に入るまでもなく誰がいるのかがわかった。
 やつらが(そろ)っている。
 対価が草取りだけというのは甘かったかもしれない。
「久我先輩。お弁当です」
「……ありがとう」
 三点リーダーが最初につくのは、温室内にいる人間が弘だけではないからだ。
『二回目のお泊まり』以降、弘は八代の弁当をつくってきてくれるようになった。つくらせていただいてもよろしいですかと問われたので、頷いた。拒否する理由が思い浮かばない。
 タダ食いするつもりはないので、口座をつくって弁当代と思しき金額を振り込んでいる。
 むろんのこと弘に内緒で。言ったら叱られるに決まっている。もしくはショックで泣くとか。泣きはしなくても哀しむようには思う。
 なんとはなしに、伊織(いおり)綾野(あやの)を見つめてしまう。アルバイトをしているふたりを。目的は知らないが、恐らく小遣い稼ぎではない。なんとなくだがそれは強く思う。去年すったもんだの末に色々と瓦解(がかい)氷解(ひょうかい)してそれなりに治まり、引っ張られるようにしてあちこち連れ回されたけれど、伊織が必要以上の出費をしているのを見たことはない。
 綾野は性格的にこつこつ貯めているとは思うが、実のところどうなのかなど知る由もなかった。
 八代の視線に気づいた伊織が、おにぎりを持ったまま意地悪げににんまりと笑った。
「なにようやっしー先輩、あたしと綾野じっと見ちゃって。まあ無理ないけどね対称的な魅力の美少女だもん。浮気して弘君泣かせたら一色(いっしき)君に言いつけるから」
 綾野は黙々と弘お手製の弁当を食っている。
「なんで鷹羽(たかは)?」
 全員いると思ったが、そういえば鷹羽の姿が見当たらない。馴染(なじ)みになった黄色のピクニックシートの上、弘の隣に座った。
 人間慣れれば慣れる。ものすごく居心地が悪かったのに、当然のものになってしまった。
「あたしじゃ勝ち目ないもん。あたしだってその程度わからないほど馬鹿じゃないよーだから一色君に言いつける。それで殴ってもらう。グーで。二、三発」
 一発だけだが(こぶし)は既に()らった。
 容赦なく突き放してはくるものの、鷹羽は八代と何気なく会話する。過去のあれこれを出してくることもない。非道の限りを尽くしたように思うが、たとえ表面上だけとしても水に流してくれている。
 ――水に流して。
 ということは、表面上だけではないのか。それに、鷹羽はそんな器用ができる人間ではない。
 ――柘植サンの恩恵なのかなあ。
 それ以外にないと思う。
 (すさ)まじいまでの効力だ。
 弘は八代の分の弁当箱の包みをほどき、箸を添えて手渡してくれた。
「鷹羽なら蹴りのが強いよ。加減なかったら今だと骨持ってかれるかもしれない」
 持っていかれそうだ。八代は現役を退(しりぞ)いて久しい上に、体力筋力激減効果抜群のニコチンを摂取している。
「鷹羽くんならきっと加減してくれますよ」
 完全否定してくれないのか柘植弘。鷹羽くんはそんなことしませんよ、と言ってほしい。
 ぱかっと(ふた)を開けた弁当は、相変わらず彩り鮮やかだった。弘がつくってくれる、弁当に必ず入っている卵焼きは好きだ。あーん事件は衝撃だったが、その後冷静なときに食べたそれは美味かった。
「ところでやっしー先輩」
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