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「はい、ありがとうございます」
 綾野は自分の膝に水玉模様の小風呂敷を広げ、その上に弁当箱を載せて手早く包んだ。
 手間は一緒ですから、みんなでごはんにしましょうと弘は弁当を多めにつくって持ってくる。伊織はカロリーをきっちり計算して食事を取っているらしく、先日のピクニックのような喜ばしい非日常でもなければ断固として無駄食いしない。最高の美は努力の上に花開くのよと言っている。真偽のほどは知らないが、徹底できているところには感嘆しかない。
 綾野は自分でもつくってくるが、弘の弁当を食べていることもある。鷹羽は努力しているものの中身がひどい有様なので、相伴(しょうばん)(あずか)っているらしかった。毎日つくってくるわりには進歩が見られない。彼の弁当箱の中は食べられないものの数の方が圧倒的に多い。破滅的、壊滅的に不器用なのだ。
 タダ食いは次子だ。
 ――と思っていたのだが、弘の自前の早弁用に+アルファしてある購買のパンや、午後の授業に差し挟まれる放課におけるおやつ目的の菓子類は彼女からのものらしい。
 ギブ・アンド・テイクが成り立っている。
 すらりと立った綾野は弁当箱を抱え、さっさと歩き出した。珍しい。いつもは弘と教室に戻るのに。
 (しゃけ)をもぐもぐしていると、すれ違いざま、
「倒れないでよ。弘に心配させないで」
 静かな声ではあった。怒っているような、でも命令というには(ひか)えめな言葉の使い方だ。
 一応ふり向いてみた。綾野はもう温室から出てしまっている。硝子(がらす)越しに長い髪の背中が見えるだけだ。
「……俺、怒らせたの?」
「あんた意外に馬鹿だな」
「心配したに決まってるじゃん。やっしー先輩綾野のこと誤解してない?」
 今のは心配なのか。
 弘を心配したのではないのか。自分が倒れると弘が心配するから。
「……理解に苦しむね」
「馬鹿だな」
「あたしが飽きる前に早く理解して」
 理解し難かったのではない。
 不可思議だったのだ。
 その意味ではひどく困難な疑問だった。
 弘を見ると、彼女はふくふくしたほんのり染まった頬で、にっこりと笑った。



 どいつもこいつも弘を好きで、次子以外は八代に大なり小なり(もてあそ)ばれたはずなのに、どうしてこうも許してもらえるのだろうか。
 わたしに免じて許してあげて――などと弘が言うはずはないだろう。
 それなら、彼女たちは彼女たちなりにそれぞれが八代をそれなりに消化していることになる。
 これも弘の恩恵だろうか。
 どれほどの影響力だろう。鷹羽でさえ拳一発ですませてくれた。
 ひどく恵まれている。
 (かばん)の中からいつものエプロンを出して首にひっかけていたら、開け放した温室の出入り口から何故か伊織が入ってきた。
 今日は草取りを頼んでいる日ではないし、該当する日でも伊織が温室まで顔を出してくるのは珍しい。
「バイトは?」
「今日は休み。あたしは働きたくてもね、ほら、うにゃらら万円以上になっちゃうとあれあれこうこうでしょ。学校の規制もあるし」
「ああ……」
 こういうところはしっかりしている。
 伊織は軽い足取りで八代の(かたわ)らまで寄ってきて、(つる)薔薇(ばら)の意匠の白い円卓の上に自分の鞄を置いた。――が、思い直したように椅子の上に置き直す。
「どうも」
「まあこれくらいはね。いつもお昼にいい場所提供してくれてるわけだし」
 くすりと笑ってささやかな礼を言ったら、伊織は悪戯っぽく肩を竦めた。
「弘君は生徒会に売ってきちゃった。役員のひとが呼んでたよって言ったら疑わなかったの」
「さすが柘植サン」
「でしょ。あたしがやっしー先輩に伝えとくから大丈夫ーって言っといた。実際生徒会のひとだって弘君はありがたいと思うし」
「俺は困る」
「お茶淹れて。紅茶がいい。ミルクがいいな。お砂糖控えめね」
 硝子を通して降る夕方前の静かな光に、ブルネットの髪が(つや)やかだ。伊織は悪びれず注文をつけ、当然のように椅子に座った。
「そういえばお湯ってどうしてるの?」
「便利な世の中だよね。水入れれば勝手に沸騰させてくれる新型の薬缶があるんだから」
 なるほどねえ、と言って、かたちのいい指を互い違いに組み、腕を前に押し出すようにして伊織はうんんと伸びをした。
「お疲れですかお姫様?」
「まあね。でも暇してるよりまし。忙しくしてるのが好きなの」
 一週間のうちどれだけをアルバイトに費やしているのかは知らないが、確かに伊織が放課後暇そうにぶらぶらしているのは見たことがない。ぶらぶらしていれば目につくはずだ。容姿が華やかで引き立つというのはもちろんあるが、それ以上に存在感が凄まじい。
 弘が、伊織ちゃんはとっても働き者さんですよ、と言っていた。余暇(よか)にあたる時間はさっさと帰って寝ているのだろうか。
「なんでバイトしてるのか訊いてもいい?」
 ティーポットに湯を入れながら尋ねたら、
「貯金」
 と返ってきた。
 八代の動きが少し止まる。わずかに眉を(ひそ)めた。
「具体的なことを訊いてるんだけど」
「学費とレジャー費用。人付き合いは大事にしたいしね。次子は放っぽらかしといてもいいかなあとか思うけど、弘君とは遊びたい。あと綾野」
「柘植サンはともかく、名瀬(なせ)サン?」
 次子は放り出していてもいい、というのはなんとなくわかる。彼女は誘われれば出てくるが、誘わなかったからといって卑屈になることはない。好きな場所で黙々と絵を描いている。とはいえ、伊織が口にしているほどに放っといているわけではないのだろう。
 伊織は、いい加減な口調で(ひね)くれた物言いをすることがある。八代と伊織が共犯者たり得るのは、このあたりが似通っているからかもしれない。
 八代の言葉に、伊織は彼と視線を合わさないまま、伸びをした姿勢でにんまり笑った。
「あたしきれいなものが好きなの。綾野は去年加わった最新のお気に入りなんだよね。弘君みたいにしあわせいっぱいめいっぱいに笑ったらどんなふうなのかなあって想像して遊ぶの」
 かすかではあるけれど、八代も笑ってしまった。伊織が言うと、物扱いしている無神経さや冷たさなんかがまったく感じられない。愛嬌があるのだ。つんとした口ぶりでも憎めない。容貌がもう少し可もなく不可もない範囲に収まっていれば、きっと幼い頃からコミュニティの中心人物だっただろう。
「学費っていうのは?」
髪結(かみゆい)になるから」
 紅茶を出しながら、伊織の口からいきなり髪結なんて古風な名詞が出たことに驚いた。八代は彼女の向かい側に腰を落ち着け、自分のカップを持ち上げる。
 ひとくち分飲んだらしい伊織が満足気に息をつき、それから八代の視線に気づいて、ああと零した。
「うち髪結なの。古いよ。暖簾(のれん)あるもん。ずーっと使ってる年季入ったやつ」
「家継ぎたいってこと?」
「うん。隔世になるけどね」
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