back  |  next   
 お菓子欲しいけどカロリー超えちゃうなあ、と(つぶや)いて、伊織は手持無沙汰らしい。ソーサーの上にあった金色のティースプーンで、紅茶を静かにくるりと混ぜた。
「おとーさんとおかーさんいないからね。おじーちゃんの跡継ぎたいってこと」
「……他界したの?」
 長い睫に縁取られた猫の瞳がきょとんと瞬く。ふるふると首を振った。
「ああそっか、ごめんね誤解させて。生きてる。帰ってこないってだけ」
「失礼ですがご両親のご職業をお(うかが)いしても?」
「化石掘り。それもふたりとも」
 考古学者だろうか。伊織は悪意ではなく説明する気はないらしい。スプーンをちりんと置いて、再度カップを傾けた。今度も満足そうな息をつく。
「小さい頃からいなかったからね、あたしおじーちゃんとおばーちゃんに育てられたの。あ、おじーちゃん超……ごめん違った、すっごくかっこいいよ。おばーちゃん顔イマイチなんだけど、性格いいの」
 イマイチとかはっきり言うあたり、伊織だ。
「宇佐美サンのお眼鏡に(かな)うってかなり難しそうだけど」
「綾野レベルじゃないと無理」
「いないよね」
「だからこそのお気に入りなの。弘君はかわいいけど美人じゃないから。でも中身がきれいだから種類は違うけどコレクションの対象」
 ひとくちにきれいと言いながら、どうやら数種類に分けられているらしい。
 それにしてもお気に入りとか想像して遊ぶとか、おまけにコレクションとまで言い切った。ここまでいくと(いさぎよ)い。
「ご健在?」
「おじーちゃんはね。おばーちゃんはあたしが中学上がった年にイイ感じのところに行っちゃった。どっちかっていうともともと身体弱い方だったし病気したから、かなりがんばってくれたんだなあって今でも思う。余命宣告三年分(くつがえ)したもん」
 なんだか意外だ。といったら失礼だけれど、普段の伊織の振る舞いや言動からはまったく想像できない内容だった。
 八代は苦笑した。
「いい加減馬鹿のふりするのやめたら?」
 伊織がむうと柳眉(りゅうび)を寄せる。
「やーだ。ひとつのアイデンティティなの」
「個性的だね。隠してないのは有馬サンだけ?」
 そうだなあ、と思い返す素振りで虚空(こくう)を見つめる。
「確かに次子には隠してないね。綾野はケース・バイ・ケース。弘君と一色君には見せない」
 気づかれてるだろうけど意地でも見せない、と付け加えられて、それもなんでもないことのようにだらりと言うから、八代はまた苦笑する。
 猫をかぶっているのとは異なる。いい意味での演じ分けだ。家でどれほど甘えん坊でも外に出ればしっかり者だったり、兄に対しては徹底的に妹の顔で相手を立てるけれど、弟に対してはきちんとお姉ちゃんの顔になったり。伊織はポジショニングが上手いのだろう。自身がどこに立ち、どのように動けば周囲が円滑に回るのかをわかっている。
「まあそんなわけで学費。あたしとしてはおじーちゃんが生きてるうちに暖簾かけたいの。髪結宇佐美っていう(こん)の暖簾なんだけど、これが抜染(ばっせん)なんだよすごいでしょ。そんでそれをバックにして、おじーちゃんに、どうよ! って言いたいわけ。命かかってるタイムリミットだからさ、足踏みしてる暇ないんだよね」
 紅茶を飲み干した伊織は、ごちそうさま、と言って背(もた)れに身体を預けた。
「高血圧対策とかね、食生活の管理はもうずーっとしてるけど、それだけじゃ間に合わないでしょ」
「……そういえば弁当つくってくるよね」
 意外だ、という心情丸出しの言い方をしてしまった。伊織は何故か自分で自分の両頬を摘んでびよんと引っ張り、べっと舌を出してきた。
「意外で申し訳ありませんね。さっき言ったでしょ、おばーちゃん病気したの。起きられないこと多かったし、食事制限きつかったから、そういうの気にしてつくらなきゃいけない状況だったんだもん。上手くなるに決まってるじゃん」
 どうしても、そして改めて意外だと思ってしまう。頬を(はじ)くように指を離し、伊織はぷんとそっぽを向いた。
「元気なまま死んでほしいしね。おばーちゃんとラブラブだったの。すっごい勢いの号泣でさ、あたしもこの世の終わりかってくらい泣いたから、できる限りのことはする」
 その頃まだ弘君と会ってなくて、弾かれ者だったから余計に心細かったんだよね。その言葉のあと、おとーさんとおかーさんとも仲良しだから誤解しないでよ、と釘を刺された。
 ――髪結。
 伊織はもう目標があるのか。これほどまでに明らかなものが。
 そんなに大切なものがあるのか。日々可能な限りの精一杯を注ぐものが。
 (うらや)ましいという感情ではなく、純粋に驚いた。伊織が馬鹿のふりをしているのは知っていたけれど、こんなにも確固たるものを持っているだなんて思いもよらなかった。
 くるりと顔の向きを正して、今度は伊織が訊いてきた。
「眠れないとか言ってたけど、どれくらいか訊いていい? 弘君と一緒に寝るってことは、あたしの経験則でいくと結構重度なんだけど」
 どう?
 ストレートに尋ねられた上、相手は伊織だ。次子とは別の意味で近しい部分があるから、八代は肩の力を抜いた。
「まあ、重度ではあるんだろうね。経験則ってなに」
「あたしも綾野も眠れたから。次子と一色君については知らない。あたしは中学のとき眠れない時期があって、弘君とこにはじめて泊まって一緒に寝たときあっさり寝られたの。綾野は去年泣きながら」
「……柘植サンて催眠術師だったの?」
「ううん魔法使い。弘君と一緒に寝るの気持ちいいでしょ?」
「うん」
 たぶん本題なのだろうが、言葉の表面だけをなぞるとおめでたいとしか言えない。原因は深刻なのだが、どうにも惚気(のろけ)ているだけのような会話だ。
 次子は――知っているのかもしれない。弘と一緒に眠ったことがあるのかもしれなかった。八代が眠れないことに気づいたとき、弘と寝ていると聞いたとき、彼女は、
 ――大丈夫じゃないから弘と寝るんだろうな。
 そう言ったから。
 伊織は、ほっと安堵の息をついた。
 少しつった大きな瞳が、やわらかく緩んで微笑む。
「それならいいや。ひとりでもゆっくり眠れるようになるといいね」
「……うん」
 なんだか不思議だ。伊織のこんな言葉や、――彼女のこんな思い遣り深い穏やかな表情をはじめて見た。
 少し、居心地が悪い。あたたかい言葉を受けるのにはまだ慣れていないから。弘ではないほかの誰かが自分を心配して、状態がよくなることを願い、喜んでくれることに慣れていないから。
 伊織の、本当に何も飾っていないありのままの素顔は、きっとこの顔だ。心配性で、世話焼きで、とても情愛深い。
「もういっそ一緒に住めばいいよ」
 ころりといつもの伊織に戻った。テーブルに両手を乗せ、身を乗り出してくる。
「……それはさすがにどうかと思うよ」
 顔が引き攣りそうになった。弘はじめ全員がおかしいことしか言わない。
 とりあえず今日はまともな仕事ができないことはわかった。でも伊織が帰ったら何がなんでもいつものチェックはする。緑の葉も美しい艶を出しはじめたこの時期、不注意で虫に食われるなど御免(ごめん)だ。弘が何時まで拘束されるのかは知らないが、もし遅くなったら心配だし。
 これまで、時間には気をつけて居残り禁止で明るいうちに帰していたから、今さら暗くなった時間にひとりで帰すなんてできない。それに、一緒に帰りましょうと言われている。
「でもでも雅ママと博パパ公認なんでしょ? 一緒に寝てるんだもん」
「……ああ……まあ、隠してはいない……」
 語弊がある。雅に引きずり込まれ、博に認められ、結果として弘が八代を離してくれなかったのだ。
「じゃあいいじゃん一緒に住めば。やっしー先輩ひとり暮らしなんでしょ?」
 今度こそ顔が引き攣った。
「柘植サンとこじゃなくて俺のとこなの? ふたりっきりで住めと?」
「え、おかしい?」
「おかしくない?」
「どこが?」
 back  |  next



 index