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「全部」
「婚約者でしょ?」
「まだ建前」
「弘君それ聞いたら泣くよ。泣かせたら一色君に言いつけるから」
「宇佐美サンが黙っててくれれば柘植サンにも鷹羽にも伝わらない」
 いつの間にか八代も身を乗り出していた。伊織なら弘に「一緒に住んだら?」くらい本当にあっさりと言いそうだ。それは困る。阻止したい。次子はともかく綾野には呪われそうだし、鷹羽には何をされるかわからない。それ以上に八代自身が弘に何をするかわからない。非常に困る。絶対いやだ。
 なんとしてでも回避する、という決意が姿勢に出た。普段の八代はテーブルに腕を乗せることはしない。(ひじ)をつくなどもってのほかだ。でも片腕をしっかり乗せて、伊織と文字どおり顔を突き合わせている状態だった。
「弘君()ならいいの? 入り婿(むこ)希望?」
 入り婿希望。どこかで聞いた単語だ。それははぐらかしようもない、雅が放った言葉だ。彼女が言ったのはもののたとえと一種の揶揄? だが、伊織はたぶん本気で言っている。
「俺のとこ以上にだめでしょ。ご迷惑」
「え、婚約」
「まだ建前」
「弘君がそれ聞いたら泣くよ」
 ――(らち)が明かねえなあ……。
 次子の呟きが活躍しすぎている。
「心配しなくてもやっしー先輩、今ならたぶん弘君襲わないと思うよ」
「……なんで」
 ひとから指摘されるのは腹が立つ。それが人情というもの。
 あまりにも距離が近くて、お互いがお互いの影に沈んでいる。八代はわずかな不機嫌が声に零れたが、伊織は思いのほか真剣に下から覗き込んできた。
「睡眠でいっぱいいっぱいなんでしょ? だったら弘君どうこうするより、おやすみって言って抱っこしてもらって寝る方が気持ちいいもん」
「……」
 薄々ではあるものの気づいていたし、心のどこか、(すみ)の方で、伊織が言うとおりの自覚があった。
 弘に何かしたらどうしようというのは自分の性質をわかっているからこその懸念で、今の八代がどうなのか、とは違う。正直なところ、今の八代は、弘と一緒に眠る、たったそれだけで足りる。
 抱きしめてくれる弘の身体がやわらかくて、左(まぶた)に落としてくれるキスに安堵する。おやすみなさい、また明日、そう言ってくれる声に、眠ってもいいのだと信じられる。
 ――ベッドが、あたたかい。
「……仮に許可が下りたとしても一緒に住むのは無理」
 静かな声になった。目を伏せて言ったら、伊織が親しげに眉尻を下げ、弘君のこと大事にしてくれてるんだね、と言った。
 大事なのは当然だ。
 悪事を(はかり)にかけていいのか、八代にはまだわからない。けれど、自身が不誠実だったこと、ひとをひどく(しいた)げてきたこと、それは自認している。
 嘘や誤魔化しのアウトラインは今でもわからない。
 そんな自分が、彼女たちにとって、……鷹羽にとって、きっといちばん大切な存在のいちばん近い席に座ることを許されたのだ。
 ほかの誰でもない、彼女自身に。
 弘から八代への想いと決意を聴かされたとき、どんな気持ちだったのだろう。どうして誰も、弘を八代から無理矢理引き離そうとしないのだろう。ほんの少し(さかのぼ)っただけで過去が闇に()ちる八代は、自分自身が(なまり)になってしまう。過去という、もうどこにもないはずの時間に重く深く沈んでいく。
 それなのに弘は、大好きです、と言ってくれる。キスをして、大切なひと、と言ってくれる。
 ――嫌いにならない、と言い切ってくれる。
 どこからくる自信なのだろう。好きだ愛しているという感情、言葉は刹那(せつな)のものとして扱えるけれど、嫌いにならない、などというのはほぼ約束になってしまっている。普遍的とまでは言わないが、人間の感覚としてはとても近い。
「ねえ、久我先輩」
「うん?」
 はじめてまともに呼ばれた。視線を上げたら、こつん、と伊織が(ひたい)をくっつけてきた。
 ――きれいな顔だ。
 美醜(びしゅう)の話ではない。()きものが落ちたような――というのだろうか。八代がはじめて見たときの伊織は、こんなにすっきりと落ち着いた表情をする人間ではなかった。不安定で臆病で、苛々(いらいら)していた。
 ――かつての、鷹羽のように。
「弘君、頑丈だから。寂しくなったひとが体重預けたくらいじゃ傾かないし、傷つかないよ。せっかく弘君と一緒にいるんだから、甘えないともったいないよ」
「……ご進言痛み入るよ」
 ふふ、とどこか嬉しそうな笑みを零して、伊織は丁寧に身体を離した。
「で、どちら様?」
「お邪魔してすみませんッ!」
(やかま)しい」
「しかも誤解。まあされるようなことしてたかもだけど」
「自覚あったの?」
「一応。弘君といるとスキンシップの加減が狂ってくる」
 同感だった。でも、弘のスキンシップ率がさらりと高い原因は明らかだから、納得するしかない。なんといっても母親がアレなのだ。父親もナニだが。
 雅の話によれば、弘は小学校を卒業するまでなんの抵抗もなく博と一緒に風呂に入っていたらしい。楽しみだったらしいのだ。博が「子どもでいいのは今日までだからね。これから逢う大切なひとにしか触れさせちゃだめだよ」と言って弘を離したというのだから、世の中には本当に色々な家族がいるものだと思う。
 その日の夜、風呂から上がって部屋に引き上げていった弘は、ベッドの中でくすんくすんと泣いたらしい。
 泣いてたのに気づいてたってこと、ひーちゃんには内緒にしといてね、と雅に言われた。少し笑って了承して、……親が恋しくて泣ける弘を、淡く羨んだ。
「それでどちら様?」
 恋人の逢瀬(おうせ)を邪魔してしまいました申し訳ありません、と顔に書いて出入り口で固まっていたのは、誰とも知れない男子生徒だった。
 絶対に一年生だ。学生服についているだろう学年章を確かめなくてもわかる。
 制服が新しい。ぴかぴか。身体に馴染んでいない。
 この近辺の公立校は、農業高校を除いてすべて詰襟(つめえり)の学生服だ。女子生徒はブレザーだったりセーラー服だったりとまちまちだが、男子生徒もブレザーなのは数少ない私立高校だけ。中学校は軒並み詰襟、つまり農業高校を除く公立に進めば、身長がとんでもなく伸びたとかでない限り、(ぼたん)のつけ替えだけで済む。
 だから学生服は当然のもののはずなのに、何故に進学しただけで微笑ましい違和感が生じるのだろうか。
 面倒くさい溜息(ためいき)をついた八代の視線の先の、推定ではあるものの絶対と言い切れる一年生は、硬そうな髪が短い、第一印象としては如何(いか)にも運動部の少年だった。身長はたぶん、鷹羽や綾野と次子のちょうど間くらいだ。
「え、ええと、お邪魔してすみません」
「さっきも聞いたよ。それから誤解。今すぐ解いて」
 八代が冷たくあしらうと、一年生(仮)は、「えっ」とぽかんとした。
「え、あれ、柘植先輩じゃなくて……?」
「ちょっとどこに目つけてるの? 弘君があたしほどかわいいわけないじゃん」
「俺には宇佐美サンより柘植サンがかわいい」
 一年生(仮)に心外そうな顔を向けたあと、伊織はしれっと否定した八代に向き直った。そしてまた自身の両頬を指で摘んでびよんと伸ばし、今度はいーっとやってきた。
「完全に主観でしょそれ。あたしが言ってるのは客観!」
 ぷりんと頬を弾き、お茶ごちそうさま、と鞄を抱える。
「やっしー先輩、弘君遅くなりそうだったら生徒会から強奪して帰ってね」
「もちろん」
 不遜(ふそん)に笑って応じると、伊織も意地悪な猫の顔で笑った。一年生(仮)とのすれ違いざま、頭のてっぺんからつま先までをつらっと眺める。
 眺められた一年生(仮)はややたじろいだ。目が泳いでいる。まさかこんな美少女に間近で見つめられるなんて予想もしていなかっただろうから、心臓が跳ねたのだろう。
「宇佐美サン、値踏みは感心しない」
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