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 生徒会室はまだ明かりが点いていた。教室の扉はきちんと閉まっているが、音もなく暗い校舎ではとても際立つ。
 漏れ出ている光は黄色い安っぽいもののはずなのに、やさしくあたたかく見えた。
 かすかなはしゃぎ声が遠く聞こえる。
 自分にはずっと縁のないものだったから。
 一応ノックしたものの返事はない。それなのに、がらりと扉を開けた途端、
「失せろ眼鏡」
 と言われた。
「納得いかない」
「いきなり入ってくるとか信じられないんだけど」
「ノックしたよ」
 赤い(ふち)の眼鏡をかけた同級生は、ぎりぎりと歯噛みした。生徒会室の扉の真ん前に仁王立ちのまま。
 八代を(はば)んでいる。言外にでもなく態度ででもなく、すべてで全否定している。
 奥にいる役員たちは微笑ましく見守ってくれていて、八代は気にならないがしのぶは気に入らないらしい。一度ぶんっとふり向いて仕事仲間を睨みつけ、またぶんっと八代に戻って下から睨みつけてきた。
「柘植サンは?」
「弘君ならもう帰った」
「下手な嘘つかないで。柘植サン返して今すぐに」
「弘君なら印刷室だよ。コピー取りに行ってもらったの」
 しのぶの後ろ、生徒会室の最奥(さいおう)にいる女子生徒がくすくす笑いながら教えてくれる。
「高槻サン、斎竹(さいたけ)サンの対応のかわいさ見習った方がいいよ」
「黙れ眼鏡、インテリ眼鏡の称号を返してよッ」
『かわいい対応』をしてくれた現生徒会長、斎竹瑩子(けいこ)の垂れ込みは本当らしい。
 しのぶは数学と英語学年首位の座を八代に奪われたのが気に食わないそうで、それで突っ掛かってきているというのだ。
 平和だ。
「俺はそんな称号与えられたこともないし、欲しいと思ったこともないよ」
「あんたのそういう態度が気に入らないのよ久我八代」
「人権侵害名誉棄損。柘植サン返して」
 全開にした扉に手をかけて動こうとしない八代を見てとると、しのぶは舌打ちでもしそうな勢いで席に戻っていった。
「柘植サン」
「あんたはそれしか言えないのッ?」
 きいっと噛みついてくるしのぶは無視する。
「なんで印刷室まで行ってるの? そこのコピー機はなに」
 目線で示したところにあるのはどう見てもコピー機だ。新しいものでないことはわかるが、古いものとも思えない。
 薄汚れている壁は掃除しても今以上にはきれいにならないのだろう。生徒会室がある第一棟は、校舎の中でもっとも古い。間取りを考慮していないとしか思えない増築がもっとも激しいのも第一棟で、するとこの汚れは経年劣化のうちだ。
 腰あたりまでしかない棚の中にファイルやら資料やらがぎっちぎちに詰め込まれていて、とても並べてあるようには見えない。棚の上にもファイルがあって、資料があって、プリントなのかなんだかよくわからないものがすべて乱雑に無理矢理に積み上げられている。丁寧に積んでいたのに乱れたのか、最初から乱れていたのかわからない。たぶん後者だ。掃除用具入れまで棚扱いされている。
 そんなもので溢れているから、室内はなんだか灰色に(すす)けて見えた。古ぼけた紙の色だ。かさかさと乾いて、紙の際は()()せて変色している。
 印字された単語の羅列だけが強烈に焼きついていて、経過した時をぼやけさせていた。
 壁に『阿鼻叫喚』と極太の達筆が貼りつけられている。意味がわからない。忙殺されることを表しているのだろうか。
「コピー機はね、不調なの」
神谷(かみや)君が紙詰まりを連発させた。B5もA4もA3もB4も、それぞれ全部詰まらせた。それで調子悪くなった」
「神谷、柘植サン返して」
「ほらもう俺にきたじゃん! 黙っといてよ久我には!」
 しのぶは八つ当たりをはじめたらしい。傍迷惑(はためいわく)をまともに喰らった神谷慎吾(しんご)彼女絶賛募集中が(あお)くなる。
 彼は八代に目をつけられてこき使われる頻度(ひんど)がいちばん高い。
 後輩役員が軽やかに笑っているだけで誰も助けないのは、八代の暴君ぶりを知っているからだ。餌食(えじき)になっていないのは瑩子としのぶだけ、ほかの役員は全員奴隷(どれい)の経験がある。
「大体なんでこんな時間までやってるの? せめて女の子は明るいうちに帰してあげなよ。何かあっても取れる責任なんかないよ」
「え、ちょっときゅんとしちゃった。久我君ってそういうこと言ってくれるんだ」
 瑩子がプリントをまとめて整えながら笑う。八代はなんだか複雑な気持ちになった。
 当然のことではないのだろうか。
「神谷」
「……はい、なんでしょう……」
「女性陣、帰り送ってってあげてるの?」
「……いいえ……。……善処します……」
 八代は不可解さに眉を顰めた。暗くなるまで仕事をしておいて、女の子がそれぞれひとりで帰るなんて危険そのものだと思う。明るい道などないのだ。この辺り一帯、どこも街灯は少ない。真下しか照らせていない暗がりがずっと続いていて、しかも街灯の間隔だってかなり広い。間隔にあたる距離は長く、そしてもちろん真っ暗だ。お情け程度の明かりで、場所によってはまったくない場所だってざらにある。一寸先は闇、が(ことわざ)ではなく比喩でもなく現実として毎日あり、正直懐中電灯も役に立たない。
「……なに」
 しのぶに見つめられていることに気づいた。彼女は赤い縁を中指で正すと、
「ちょっと見直した。インテリ眼鏡の座は奪還するし厭味(いやみ)(かたまり)だとは思うけど、ちょっとはいいやつだって評価してあげる」
 上から目線で言われるのはこの際どうでもいいが、取り立てて評価されるようなところだろうか。いいも悪いも、常識だと思う。
「柘植サン返して」
「ふりだしに戻ったわね。そろそろ帰ってくるでしょ」
 評価してくれたのは本当らしい。あっさりと八代から視線を外して机に戻ったが、しのぶの声に険はなかった。
 なんとなく、立ち位置に近い出入り口の机に目を落としたら、女の子と視線があった。名前は知らない。顔も覚えていない。見慣れていないのだ。
 弘と同じく助っ人参加だろうか。
「なに」
「あっ……いいえ、なんでもありません」
「そう」
 八代としては何気ない応答のつもりだったのだが、部屋の奥から呆れたような溜息が聞こえた。
「久我、おまえもう少しこうなんていうかさあ、疑問符つけようよ。ね? ついてないとめちゃめちゃ冷たい印象になるから。ほんとに。ただでさえ涼しい顔してるんだから、怖がられるよ」
 溜息の出どころ、慎吾が持ったペンをぷらぷらさせながら注意してきた。
「……善処するよ」
 はじめて言われた。
 化けの皮が()がれてきているということだ。無自覚だった。
 ――たぶん笑ってた。
 これまでだったら。
 どんな表情が相手に好印象を与えるのか。表情の影響力は知っている。だから、これまでだったら微笑して、丁寧に疑問符をつけた声で応じていた。
 気づいて思い出すと色々出てくる。
 つくった笑顔をすることが少なくなった代わりに、かすかではあれつくっていない笑みを零すようにもなった気がする。
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