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 ――恥ずかしい。
 何が、かはわからない。でも恥ずかしい。妙な動揺が心を走る。
 弘は気づいているのだろうか。
 どうなのだろう。記憶を探るが何も引っかからない。そもそものこととして、彼女に向けていた笑みがつくったものだったのかどうかすら怪しく思えてきた。
 俯いてしまった女の子に謝りはしたものの、落ち着かない。弘はどう思っているのだろうか。
 気づかれているのかどうかを確かめたい。
 慎吾に指摘されたたった一点だけで、自分自身のどこからどこまでが偽りだったのかがわからなくなった。
 やさしい、という最低な擬態(ぎたい)を見せていた相手は弘なのだ。
 ――怖い。
 弘に占拠されていく。
 熱愛なんて浮かれたものではない。深刻な問題だ。恐怖なのだ。安心するのに不安になって、その背中合わせの理由がわからないから心が均衡(きんこう)を崩す。
 ――会わなかったらよかった。
 どうしようもないことを後悔した。自分の手では届かない領域のことを。
 結婚の申し込みを断ればよかったとは思わなかった。根底から覆したい。弘が差し出してきた入部届けを目の前で破ってやればよかった。
 ――やり直しはきかない。
 八代はもう、弘を知ってしまった。
 弘という存在は、八代の中に既に根を張ってしまった。
 ――変えられる過去があれば誰も苦労なんてしない。
 後悔などという言葉も概念も、存在しない。
「久我先輩」
 にこにこした声に呼ばれて、自然に視線を落としながらふり返った。
 八代がただふり返るだけでは、すぐ傍にいる弘と目を合わせられないから。
 弘が八代の「ねえ、柘植サン」に対して「はい。なんですか、久我先輩?」と応答するのと同じように、八代も弘に呼ばれたときには視線を下ろす条件反射が身についてしまっている。
 ただ、八代自身がそれに気づいていない。
「柘植サン、遅い」
「帰れ眼鏡。(ねぎら)いなさいよ」
「柘植サンを働かせてるのはそっちでしょ。使いっ走りなんて神谷がすればいい」
「俺かよ!」
「お待たせして申し訳ありません」
 理不尽に責める八代の物言いを、弘は笑顔であっさりかわした。
「弘君、そこの銀縁甘やかしちゃだめよ」
 弘は積み上がったプリントを両手に抱えながら、しのぶの発言に笑った。
「わたしも銀縁ですよ。おそろいなのです」
「そうなの? 久我君ってそんなかわいいことするんだ」
「偶然の一致。柘植サン返してもらうからね。それから女性陣、気をつけて帰って。ひとりずつ神谷に送り届けてもらったらいいよ」
 女性陣それぞれの家と学校を往復しろと言外に投げた。慎吾がすかさず「無理!」とか言ったが知ったことか。
 眼鏡の縁が飾り気のない銀なのは本当に偶然の一致だ。でも、弘におそろいなんて言われて、瑩子にかわいいことをするなどという一瞬の誤解までされた八代は、しのぶよろしく八つ当たりに出た。
 しのぶに八つ当たりされ八代に顎で使われる慎吾は愛されている。……迷惑を(こうむ)ってくれる人間として。



 並んでぽてぽて歩いて帰る道は、柘植家に向かう道だった。
 弘と一緒に帰るというのはそういうことだ。
 あたたかいベッドで幸福に眠って朝を迎えるということだ。
 宵闇(よいやみ)に浮かぶ月は、半月から面を少しふくらませている。弘に比喩を求めたら、カレーパンみたいとか餃子(ぎょうざ)みたいとか言うに決まっていた。
「部員入ったよ」
 ゆらゆらと心地よい沈黙を自分で破ったのは、自身の過去の虚偽の不安があったからだ。質問の仕方を思いつかなくて、それとはまったく関係のないことを口にした。
 弘が喜ぶのがわかっていたから。
 ぱっと顔を上げた弘が頬をほんのりと染めた。
「今日ですか?」
 弘は疑問符をやさしくつける。
 原稿用紙にすればたった一マス分をプラスするだけなのに、弘の質問は八代の質問と全然違う。
「ひとりだけどね。明日ほぼ間違いなく朝イチでくるよ。ずいぶんと好きみたいだったから」
 わあ、と弘が感動する。
「うれしい……! 入部希望者の有無は懸念事項だったのです」
「……柘植サンひとりでもやっていけそうだけど」
「そんなことはありません。かなり困難です。ひとりでもいるのといないのとではまったく異なりますから……新入部員のないまま先輩が卒業なさったら心許(こころもと)ないと思っていましたので、うれしい……!」
 繰り返して言って、弘の表情はほくほくとしあわせそうだった。
 しみじみ思う。自分自身のことも、自分の周りのことも、ひとの話をありのままの自分で聴けばかなりの情報量になるらしい。しかも高純度な。今まではずっと『つくった自分』を真実としてきたから、そんなふうに考えたこともなかった。
 次子は変化に気づいてくれて、伊織や綾野は心配してくれて、慎吾には注意された。瑩子に親しく笑われ、しのぶはあっけらかんと宣戦布告してくる。
 時間が途切れたわけではない。
 擬態の八代と、今の中途半端な八代は地続きだ。連続している。『久我八代』という情報を脳がいいように補完してそれぞれに納得させているだけだとしても、時間も記憶も(とどこお)ってすらいない。
 違和感もないのだろうか。
 これまでとどこか違う、とぼんやりしたものでもいい。猫をかぶっていたのか、という失望でもいい。
 誰も何も気づかないのか。
 だから表裏(ひょうり)の境界線がわからなくなった。八代自身は特別に振る舞いを変えているつもりはない。話している内容も口ぶりも変わらないと思う。八代の口の()に上るのは大抵厭味か皮肉だ。それなのに――
 ――どうして誰にも弾き出されないのかがわからない。
「ね、柘植サン」
「はい。……どうかなさいましたか?」
「……」
 どうしてわかるのだろう。
 歩きながらでも一生懸命見上げて、目を合わせてくれる。弘の微笑み方はいつも甘くてやさしい。
「ぅあっ」
 ぺけんっ、と小さな身体がものすごく不自然に傾いた。
「うん……帰ったら話すよ。注意散漫誘発してごめん」
「う、うぅ、ありがとうございます」
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