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 どんくさい。話しかけられ見上げただけでつまずいた。
「――」
「先輩?」
「前見て歩いて」
 ふつりと声を消してしまった。呼吸も。
 (さと)く聞きつけた弘が覗き込んでこようとしたから、問われないよう先手を打つ。おとなしく前に姿勢を正して歩いている弘だけれど、意識は歩行に向けられていなかった。それがわかるから、本格的に取り乱してしまいそうになる。
 ――帰ったら、と言ってしまった。
 とても自然に。
 躊躇いもしなかった。
 まるで当たり前みたいに、ひどく無遠慮なことを言った気がする。弘が聞き(とが)めないから一層居た堪れない。
 家の在り処さえ――帰っていく場所さえ揺らいでいる。



 泣きそうな顔をして拝んでくるクラスメイトに、鷹羽は微笑ましい溜息まじりでノートを手渡す。
「僕より弘君の方が確実だと思うよ」
「柘植ちゃんはだめ。できすぎてるから写したって一発でばれる」
 そのとおりだから苦笑した。
「名瀬さんは?」
「名瀬さんもだめ。美人すぎて近寄れない。一色の周りの女の子ってなんでそんな優秀な子ばっかなの?」
 そんなことを訊かれても返答に(きゅう)する。友人は選べとよく言うけれど、優秀な人材と見込んで選び取ったわけではない。繋がりを持った人間がたまたま優秀だっただけだ。
「うー、でもでも柘植ちゃんはもう相手いるしなあ。しかも絶対勝ち目ない」
 始業時刻直前、たった今鷹羽から借りたノートを猛然と写し取っている弓道部員、佐伯(さえき)孝司(こうじ)は恋をしたいお年頃だ。
 恋をしたいと恋人が欲しいを混同しないあたりが好きだ。誰かを想い、奇跡的な確率で相手も自分のことを思い返してくれて、はじめて恋人関係は成立する。恋人が欲しいから恋をしたいのと、誰かに恋した結果の恋人同士では全然違う。鷹羽は後者の考え方だから、前者のものの言い方を聞くたびに本末転倒の四字熟語が脳裏を駆ける。
 恋はしたくてするものではない。したくなくても堕ちるときには堕ちる。するというよりも、してしまうものだ。
 望んでいなくても、さらわれてしまうものだ。
「弘君のこと好きなの?」
 尋ねてみると、ノートから顔を上げた孝司は心底意外そうな顔をした。
「うん。嫌いな人間探す方が難しそう」
 孝司は、あれだけいい子なのに女の子の友達が多いのってすごいと思う、と続けた。
 そうかもしれない。
 思春期の女の子は、異性に関してよりも同性に嫉妬心を抱きやすいと聞いたことがある。かわいさ余って憎さ百倍ということなのだろうか。そもそも聞きかじった情報だって本当なのかわからないし、ただの流言(りゅうげん)飛語(ひご)かもしれない。それは大いにあると思う。男だって、自分より優れていて、しかもコンプレックスを刺激されるような部分であれば同性にだって嫉妬する。
 そんなことを考えながらノートの丸映しを眺めていたら、突然教室の扉ががらりと開いた。扉近くの席の女の子が小さな悲鳴を上げる。
 音と勢いに驚いたのだろう。でもそれ以上に、たぶん扉を開けた人物と切羽詰まった顔に驚いたに違いなかった。
「八代」
「暇?」
 挨拶もなしにいきなり質問された。女の子には一応謝っていたが、鷹羽に対しては伺いの一言もない。
「こんな時間に暇なわけないだろう。もうすぐ授業はじまるよ。弘君は一緒じゃないのか」
 (あき)れて言ったら、何故か八代は不満そうな顔をした。
「見てのとおりひとりだよ。化学室の鍵当番だからって言って早く抜けてきた。言っとくけど嘘じゃないからね。当番なのは本当。慌てなきゃいけないのは嘘だけど」
「僕に何か用?」
「用があるから来てる」
 確かにそうだろうが(えら)そうだ。性格についてはずいぶんと丸くなったとは思うが、何かにつけ厭味が口をつくところは変わっていない。
「放課後()けて」
「部活だよ。わかってるだろう」
「休んで」
「馬鹿も休み休み言え」
 切り捨てる気満々で突っぱねた。軽く流している鷹羽を、写さなければいけないノートから気を()らして両者を交互に見比べる孝司だけがはらはらしている。言うまでもなく部外者なのだから、彼が気にする必要はまったくない。
「話。聴いてほしいことがあるから。お願い」
 顔も向けなかった鷹羽だが、お願い、なんて単語が八代から出てきたことに驚いた。思わず正視する。
「緊急事態なのか?」
「うん。ある程度」
 最近の八代は時折おかしい。論理性から外れる。
 鷹羽は、曖昧だなと笑った。
「いいよ。部活終わったら待ってる」
「鷹羽が来て。温室」
「用がある人間が来るのが道理だ。早く頷かないと弘君が来るぞ」
 (おど)すと、八代は不承不承(ふしょうぶしょう)頷いた。わかった、とおもしろくなさそうな口ぶりで言って、途端に興味を失ったみたいに扉から離れる。そのままさっさと歩きだしてしまった。
「……()ねたのかな」
 絶対拗ねた。
「……なんかイメージと違った」
 ぼんやりと孝司が漏らして、聞き取った鷹羽は視線を移動させる。
「もっとこう……なんていうか、すごい冷静っていうか……冷たい感じのひとだと思ってた。普通に我儘(わがまま)なこと言うんだ。ちゃんと人間らしい」
 鷹羽が笑えなかったのは、孝司が真面目に言っていたからではない。ついこの間まで、八代が本当に冷たく人間味のない人間だったと知っているからだ。
 でも、孝司が最後に言った「人間らしい」という一言は、とてもあたたかく響いた。
 願ってもない。
 八代はこれから人間になっていく。(いばら)の道を裸足で歩み、自分が持っているすべてを傷つけて孤独を学んでいく。
 希望の在り処と(はかな)さ、それがどれほどの幻想なのか、それでもなくてはならない理由はなんなのかを求めていく。



「鷹羽遅い」
「うわっ」
 粗末な防水撥水(はっすい)カーテンが背後で一気にざっと引かれ、しかもこの上なく冷静でこの上なく傍若無人な声に思わず声が上がった。
「なんなんだおまえは!」
「柘植サンの婚約者。早く出て」
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