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 名乗りなど求めていない。鷹羽が非難したかったのはそんな場所にはない。
 頭の上からざあざあと、温水というには冷たく、冷水というには温かい水が局地的に降ってきている。ひとひとりが立てるだけの直方体、その一面は八代がなんの配慮もなく引ききったカーテンだ。
 要するに、鷹羽はシャワーを浴びている。
「何考えてるんだひとがシャワー浴びてるときに!」
「話を聴いてほしいって考えてる。遅いから()かしてる。だから早く出て。はいタオル」
 さも当然の言い様でタオルを渡してきた。慌ててコックを捻ってシャワーを止める。びしょ濡れ空間にさらされたら、どんなにふんわり乾いたタオルでも年季の入った雑巾(ぞうきん)のように濡れてしまう。
「もう少し待ってろ!」
 腹が立っている感情を隠しもせずにタオルをひったくった。カーテンを引き直そうとすると、何故か八代もカーテンをはっしと握る。
 鷹羽の眉根はむろん寄る。
「この手はなんだ?」
「話聴いてってさっきから言ってる」
「……僕は今裸だ」
「服着てシャワーってかなり特殊だと思うよ。場合は限られるように思う。だから今の鷹羽が裸なのは普通と言っていい範囲の行為行動」
 あんまりにもあまりにもな台詞(せりふ)に、鷹羽は八代の手を思いきりふり払ってカーテンを引いた。
「おまえの今の行為行動は普通とは言えない!」
 乱暴な声が不協和音でわんわん響く。壁面に飛散(ひさん)している水滴さえ震えているように感じられて、とにかく何もかもが気に入らない。
 大体、シャワー室に入ったのはついさっきだ。十分も経っていない。八代がいつから待っていたのかは知らないが、それにしたって理不尽極まりない。
 憤懣(ふんまん)()(かた)ない勢いで適当に身体を拭いていたら、とりあえずはシャワー室から出たらしい八代が(しょう)()りもなく急かしてきた。
「はーやーくー」
 間延びした声が菓子をねだる子どもと同じ調子で、鷹羽はいつものようにいつもの台詞を、いつも以上に苛立(いらだ)たせて一喝(いっかつ)した。
「いい加減にしろ!」



「いい加減にしろ」
「それさっきも聞いた」
「何度も言わせないでくれ」
 まだなんの話も聞いていないが、正直放棄したい。鷹羽はタオルを頭からかぶって、がしがし髪を拭きながらシャツの(ぼたん)に手をかけた。
「どうしてそんなに神経がないんだ……シャワーくらいゆっくり浴びさせてくれ。同性間でもセクハラは成立するよ」
 プールの際にも使用するシャワー室、すぐ出たところの灰色の壁に寄りかかるかたちで、八代は珍しく座っていた。外となったら階段でも座らないのに、今にも胡坐(あぐら)をかきそうな無防備さだった。
 警戒するのに疲れているようにも見えた。
「神経くらいある」
 中途半端な切り返しだった。(くち)喧嘩(げんか)していて、言葉がなくなったから適当に(ののし)るような投げ遣りさと負け惜しみ。なんだか笑ってしまう。
「弘君に叱られたのか?」
「なんで。喧嘩したのかって訊くのが一般的なように思うけど」
「弘君とじゃ喧嘩になんかならないだろう。おまえが捻くれたこと言って弘君に窘められるくらいで終わってるんじゃないのか」
 まるで一部始終を見られているみたいだ。鷹羽は当たり前のように八代と弘の間の空気や距離を読み取ってくる。
 斜め後ろにいる鷹羽の苦笑と、身支度を整えている気配を感じながら、どれから話そうかと考えた。
 話したいことがありすぎる。
 聴いてほしいことが。
「我儘」
「自覚したのか」
 ぽつりと自分を分析したら、鷹羽は微塵(みじん)のフォローもなく肯定してきた。まあそうだろうなと思う。でも、我儘程度のかわいい自己評価で流してくれるのが不思議だった。
「ねえ、俺が柘植サンと一緒に暮らすって言ったらおかしいと思う?」
 ひとまず、伊織の問題発言から崩していくことにした。
 大きなセカンドバッグのファスナーを開ける細いひっかかった音が一旦止まる。
「おかしい……どうかな。入籍すれば何もおかしいところはないと思うよ」
「みんななんでそんなに柘植サンの結婚発言あっさり認めてるの。しかも相手俺なのに」
 弘がどれだけ大切にされているのかがわからないほど馬鹿ではないし、認めたくない現実から目を逸らす技術は衰えていく一方だ。八代なんてきっといちばん(みにく)い行いを重ねてきたのに、彼女の周囲がそれを知らないはずはないのに。
 鷹羽はそれをもっとも強く激しく知っているはずなのに。
 八代が弘を傷つけることを懸念しないのだろうか。今までそんなことをしてきた人間に弘は渡せないと、八代はこれだけのことをやってきたのだと弘に知らしめて言い含めることはしないのだろうか。
「弘君が決めたことだからね」
 気負いのない声だった。
 雅と同じことを言った。
 ――弘が考えて、自分で決めたことだから。
「そんなのでいいの」
「いいとしか言えないな。みんな止めようとしたし止めたかったけど、弘君が揺らがなかったから。――たぶん、八代が考えてるよりずっと、みんな弘君を好きだよ」
 文脈の接続が上手くできなかった。
 弘を好きなら、なおのこと自分を遠ざけたがるような気がする。予想しているよりさらに彼女を大切に思っているというのなら、八代なんか受け入れ難いように思う。
 意味がわからず頭の中で色々と要素を組み替えていたら、
「弘君を好きだから、信じてるから。だから、弘君が八代を好きだっていうなら、自分たちにはわからなくても、おまえには何か信頼や誠実に足るものがあるって思うんだよ。――きっとみんな、今おまえに何があるのか探してる。これから何を持てそうなのか」
「そういうのって期待っていうの」
 だとしたら負担だ。重い。()し潰されそうだ。仮定としてでも言われると、それだけでつらい。
 ふ、と鷹羽が笑った。
「希望だよ。弘君に幸せになってほしいんだ」
 文脈が見えない。
 文章の連結ができない。
 どうしてそうなるのだろう。
「期待っていう意味の希望じゃない。願望じゃないよ。信じるっていう意味」
「そんな意味あったっけ」
 心細い背中でぽつりぽつりと零す八代の声が、ひどく頼りない。迷子みたいだ。
 自分ではどうすることもできなくて、待っていることしかできなくて、それでも同じ場所で待機しているのがもっとも事態悪化を防げると知っている。
 迎えにきてくれるまで、迷子はそこを動けない。
 呪いみたいだ。
 迎えにきてもらえる確信があればお(まじな)いだけれど、このまま捨てられるかもしれないと思っているのであれば呪いだ。
 八代の広い背中が寂しげで、鷹羽はそっと目を伏せた。
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