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「辞書に載ってなくてもあるんだ。希望は信じないとなんの効果もないし意味もない。裏返すだけだよ。信じるならそれは希望になる」
 鷹羽はそう信じている。
 希望なんて、最初から(まぶ)しいほど輝く光ではないのだ。
「……入籍してなくて。現在ふたりとも高校生、未成年。両者ともに稼ぎなし、柘植サンのご両親は認めてくださったけど俺のとこについてはそもそも会話からして成り立つのか(はなは)だ疑問。ついでに俺は不眠症、ひとりじゃまともに眠れもしない依存ぶり」
 用意してきた台詞ではない。それなのに流れ出た。引き換えのように感情はまったく入らなかった。教師に指名され、教科書をだらだらとなぞるだけの音の使い方だ。
「不眠症だったのか。……よく倒れないな」
 いつやめたのかまでは知らないが、八代が空手を(たしな)んでいたのは知っている。たまに決勝で対戦した。勝つこともあったし負けることもあった。そのわりに、八代は何故か初戦敗退していることもあった。原因が体調だったのか気まぐれだったのか、両方だったのかは知らないが、それでも試合に出てくる程度にはやっていたのだ。
 かぶっていたタオルを頭から引き下ろす。八代は面倒くさそうに応じた。
「倒れた。おかげで原級留置」
「そうだったのか」
「うん」
「初耳だ」
「今言った」
 応じる八代はぼんやりしている。手が身体のあちこちを探り出したのを見て、ポケットを確かめているのだとわかった。
「煙草はやめろ」
「持ってない」
「持っててもやめろ」
「口寂しい」
 変わったのは八代だけではないのだと、鷹羽は思う。
 ――口寂しい。
 この言葉で挑発されたことがある。息苦しい狂気のはじまりのことなのに、その経験や過去を忘れたわけではないのに、鷹羽の心は(さざなみ)さえ立たない。
「ビスケットでも入れておくといいよ」
 ポケットを叩くと、その数だけビスケットは増える。(とし)を重ねるにつれ、ビスケットが砕けて破片になるだけだと解釈するようになるけれど。
 そうではないのだろう。
 単純な喜びだ。
 かわいらしい悪戯心で、甘い想像だ。
 ――そうだったらいいのにな。
 そんな純粋な夢だ。
「……検討しておくよ」
 八代にしてはかなり素直な返答だった。鷹羽はまた笑う。淡い色合いの空想を覚えたのだろうか。習得はしていなくても、存在は知ったのかもしれない。
「そんなひどい有様なのに、一緒に住むなんて無理だしやっていいとも思えないんだけど、鷹羽の意見は」
「ああ――」
 そういえばそれが本題だった。
「ひとりじゃ眠れないっていうのは置いておいて――そうだね、経済的なことを考えると望ましくないと思う。高校生っていうのも問題かな、同じ未成年で学生でも高校生と大学生じゃ違うし。八代が弘君にひどいことするって疑ってるわけじゃなくて、女の子の方が絶対的に不利な立場になるだろうから――女の子は身体に明らかで決定的な変化が出るから、軽々しくやっていいことだとは思わない。特に、最後の懸念事項については年齢は問わないと僕は思ってる」
「常識的な意見で助かるよ。宇佐美サンなんか当然のように一緒に住めばいいって言ってきた」
 鷹羽は伊織を意識して思い出してみた。彼女の普段の言動を。
「……言いそうだね」
「言ってきたんだよ。過去形。既にあったこと」
 発信源は伊織か。
 どんな経緯でそんな会話に至ったのかはわからないが、どうやら八代は伊織の意見に本気かつ真面目に戸惑ったらしい。
「変わったなあ……」
 本音が口に出た。
 八代がやっと顔を上げて、少しふり向いて鷹羽を見る。
 ――ほんとうに、変わった。
 八代が座っていて、鷹羽が立っている。当然八代は鷹羽より低い位置にいて、見上げてきている。
 これまでの関係では考えられない位置関係だ。八代は至近距離の相手に見下ろされるのを極端に嫌う。性格に由来するものだとずっと思ってきたが、まったく異なる理由があるのではないかと最近になって思いはじめた。
 ピクニックごっこをしたとき、突然巻き込まれるかたちになったにせよ、八代は椅子に座ろうとした。我儘を言いまくって遣り過ごそうとしていたが、弘に(うなが)されて結局は彼女の隣に座った。そのとき彼はひどく居心地悪そうにしていた。慣れていないのだとすぐにわかった。
 最初は、(たたみ)でもない平たいところに座ることに抵抗があるのかとも思ったけれど――
 ――鷹羽は八代を見下ろした記憶がない。
 精神的なことではない。ただの立ち位置、物質世界での話だ。押さえつけられるのは当然のこととしてあったが、無理矢理引き立たせられるようなことは一度もなかった。寝顔も知らない。八代が傍らにいたことなどない。
 消沈などとは遠いところの感情が静かに湧いた。
 八代は警戒していたのだろうか。鷹羽を、ではなく、何かを。警戒して嫌悪して遠ざける――
 ――恐怖心。
 何かをひどく恐れている。
 まだただの推測だ。
「ひとりじゃなければ眠れるのか」
「………………柘植サンといっしょに寝ると眠れる」
 安堵できるのか。
 安心している。
 警戒しなくていいから眠れる。
 警戒せずにいられるのは守られているとわかるからだ。
 それなら、八代を支配していたのは、高い確率で恐怖だ。しかも、かなり強い。
「……俺のこと恨んでないの」
 八代は再び俯いた。
 鷹羽の沈黙にすべてを見透かされている気がした。眠れないことも、弘と一緒になら眠れるとも話してしまった。そうしたら、近距離にいる相手に見下ろされたくないのは恐怖心があるからだと鷹羽は恐らく気づいただろう。確信はなくても、推測くらいはしている。
 八代に見下ろされたことがない、とはっきり気づけるのは鷹羽だけだ。
 つまり、八代は常に鷹羽を見下ろし続けていたということだ。
 あらゆる意味で。
 八代は鷹羽に何も許していなかった。反論も抵抗も、――愛情さえも。
 柘植家のひとびとにも俯かないでと言われている。大切な話をするとき、相手から目を逸らしてはいけないと。
 難しい。
 不眠症を告白するとき、雅を見据えられた自分が信じられない。どうしてそんなことができたのだろう。射竦められるという確信があったのに。
 ――難しい。
 俯くのはこんなにも簡単だ。
「恨んでないよ」
 答えは清廉(せいれん)な声で返ってきた。八代は顔を上げられない。
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