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「殴ってなかったらもっと違ったかもしれないけどね。僕の中ではあれで清算できたから。今さらわだかまりなんてない」
「俺はいまいち清算できてない」
 少し、見栄を張ってしまった。
 いまいち清算できていないのではない。まったく清算できていない。
 鷹羽は繊細な眉をほんの少し顰めた。不機嫌ではなく。
「それはおまえの問題だ。僕にはどうにもできない」
 正論で殴られた。
「八代」
 返事ができない。鷹羽は構わず続けた。
「僕がおまえをわだかまりなく受け入れられるのは、責任をなすりつける気がないからだ。僕にも責任があった。どちらか片方が悪かったわけじゃない。飲酒居眠り信号無視の自動車とルール遵守の徒歩の交通事故でもあるまいし、十対ゼロじゃないんだよ。僕もおまえも悪かった」
 かち、と軽い音がした。ペットボトルの蓋を開けたらしい。
「潔く割り切ったね」
「清算するってそういうことだろう」
 でも八代はできていない。理解してはいるけれど、具体的にどうしたらいいのか、手段を思いつかない。鷹羽はお互いが悪いと言っている。そういう側面もあったとは思う。でもそれは今だからこそ思えることだ。考えが及ぶだけだ。当時、なんて言葉を使えるほど想い出話にはなっていない。潔く終われている鷹羽にとっては想い出かもしれないが、八代にとっては努力したところで取り返せない暴力だ。
「いい勉強になったと思ってるよ。生きていける確信を持てた」
 潔い。
 八代はそんなふうには思えない。
「八代。改善したいと思うなら努力しないと何も変わらない。悪くなっていくだけなんだ」
「それもう何回も聞いた」
「わかってないみたいだから繰り返してるんだよ。ひとにものを教えるのには根気が必要なんだ」
「生意気」
「おまえが言うな。そんな拗ねた顔して、子どもと一緒だ」
 今度は、かしかしと音がした。キャップを戻したらしい。ペットボトルは開けただけで、飲んではいないらしかった。
「好きなことは何も考えなくてもできる。好きに理由も理屈も必要ないのは論理性がいらないからだよ。本能で間に合う。でも、いやなことをするには物事を論理立てて考えて、理由と理屈を引き出して納得しないと行動できない」
 小さい頃には人目があってもピーマンは嫌いだって主張しても、少し成長すれば食べないといけないんだってわかって自分で何かしらの理由を見つけて納得するよ。
 子どもとピーマンというふたつを持ち出され、あまつさえそれを関連づけられてたとえにされた。八代はますます拗ねたくなる。ピーマンが苦手なわけではないが、そのふたつを揃えて並べられるなんて、本当に子どもだといわんばかりだ。ピーマンといえば、ちびっこの嫌いな食べ物ワーストスリーに数えられているに決まっている。
 八代はなんでも食べる。食べ物の好き嫌いなんて贅沢(ぜいたく)は、今でもなかった。が、どうだろう。
 もしピーマンが苦手だったとしたら、と想像してみる。
 確かに、あの苦みは少し独特だ。それが好きではなかったら。食卓に上ってきたとしたら。
 それでも八代は絶対に食べる。アレルギーではないからだ。そして、何よりもったいない。ひとがつくってくれるものを残すなんてできない。
 ――嫌いなことをする理由はこれか。
 ピーマンは苦手だ。できるなら避けたい。でもそれをしないのは、もったいないと思い、つくってくれたひとのことを考えるから。これは、苦手なピーマンを食べるために、理由と理屈を引っ張り出して、論理立てて考えている。
 八代は深い溜息をついた。なんだか疲れている。
「わからないことだらけで困る」
「今まで思考を拒否してきた証拠としっぺ返しだ。取り戻すのは簡単じゃない」
「取り戻せたの?」
「努力中だよ」
 鷹羽の声は明るく澄んでいる。そのぶん八代は暗く、重たくなった。
「どうにもならない。八代、助けてもらえないことなんかたくさんある。自分でしか解けない問題の方が多いんだ」
 かちり、とまたペットボトルのキャップを開ける音。声や言葉とは裏腹に、彼も落ち着かないのかもしれない。
「気にかけて思い遣ってくれる人間がいるってことくらい、もう気づいてるんだろう」
「…………」
 とっくに気づいていた。認めざるを得ないことが身の回りに溢れている。知らないふりをして突っぱねる選択肢はいつだってあるのに、これからだって奪取されるものではないのに、八代は戸惑いはするもののおとなしく甘受(かんじゅ)している。
 慣れないから居心地が悪いだけで、気持ちが悪いわけではない。
「受け入れてくれるひとがいても、おまえ自身が受け入れないなら今までと同じだよ」
 さっきからずっと、反論らしい反論をできない。正鵠(せいこく)を射ているからだ。十対ゼロで八代が悪いわけではないように、責任はお互いにあって、お互いが悪かった。逃避だけに(すが)りついた。
 立場を固定して各々目を逸らすことで、真実を中途半端に塗り潰した。
 強くなるために八代と訣別(けつべつ)すると言った鷹羽が目指したのは、きっと弘だ。
 今の心境がどうなのかは知らない。訊いても答えはくれないだろう。八代は不安定で、そのぶん明確で単純な答えが欲しいから、助言はくれても主観の答えはくれないに違いない。
 白い(きぬ)(すみ)に染められ黒くなるのと同じように、今の八代はすべてに影響されやすい。
「弘君と一緒にいることを覚えろ。できないなら努力すればいい。でもそれだって選択肢のひとつにしか過ぎない」
 切り捨てるという選択肢もある。
 鷹羽はそこまでは言わなかったけれど、その程度はわかった。
 素っ気ない鷹羽を冷たいとは思わなかった。(ゆる)してくれていることだけがわかって、だからつらい。
「鷹羽」
「今度はなんだ?」
 苦笑の気配と許容が伝わってきた。空気の振動がぬくもっている。
「鷹羽も柘植サンと一緒に寝たことあるの」
「黙秘権を行使する」
「黙秘以上に雄弁な肯定なんかない」
『無題』以上にすべてを表すタイトルがないように。
 鷹羽が少し笑った。
「そう思ってくれてかまわないよ」
 温厚な余裕が歓迎の抱擁(ほうよう)みたいに降りてきて、気づかないふりをするのが心底馬鹿馬鹿しくなった。いつか次子に予告されたとおりになるのは(しゃく)だったけれど、認める姿勢ができかけているところに否認は疲れる。
 自分が幼児退行しているのも、とっくに認めていた。
 それでも弘が抱きしめてくれるから、空虚も空白も埋めようという気になる。周囲に何人も受け入れてくれる人間がいるとも知ったから、子ども時代をやり直すという成長の仕方があることもわかった。
「鷹羽」
「なに?」
「俺のこと嫌いにならないって言える?」
「言えない。僕は弘君みたいな(ふところ)の深さは持ち合わせてないんだ」
「嘘ついて」
「意味がないだろ。甘えるな」
「おなか減った」
「早く帰れ」
「柘植サンの卵焼き食べたい」
「なおさら早く帰れ」
「鷹羽冷たい。もっとやさしくして」
「これ以上のやさしさないよ。早く帰って食べて寝ろ」

 冷たいなんて、思っていない。

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