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ガラス玉演戯






「おう、来たかぁ」
 八代(やしろ)がスタッフルームの扉を開けた瞬間、少年のような顔で笑って迎えてくれたのは、髪に白いものがまじりはじめた壮年の男性だった。肌は()()けていて、歯の白さが際立っている。顔に刻まれた(しわ)は深く、節くれだった手は硬そうだった。
『G*G*』という園芸店の名前がプリントされた緑色のエプロンをかけ、さらにその上からショート丈の黒いガーデンエプロンをかけている。見た目にも個性的で、ついでに動きにくそうに見えるのだが、そのようには感じないらしい。彼曰くこれは仕事に(のぞ)む正装なのだそうだ。
 八代が頭を下げると、個性的な正装の店長は短く刈り上げた髪をがしがし掻いた。
「こんなん言うのもなんだが、学校――っていうより、進路って言った方がいいのか? 三年だろ。来てて大丈夫なのか」
「三年でもバイトは禁止されていませんよ。それに、僕の場合はボランティアですし。進路につきましては、来し方がいい加減に過ぎたので、行く末を決めかねてるんです。迷える子羊なんですよ」
 しれっと言いながら、(かばん)からいつもの黒いエプロンを出す。首に引っかけ、紐を腰の後ろで結んでいると、
「どこに迷う必要があるよ、造園技能士一択だろう」
 と笑われた。八代は遠慮なく眉を(ひそ)める。
「そんな簡単に……実務七年以上ですよ」
「一級目指してるんだな」
「……」
 袖をまくっていた手を止め、眉を顰めたまま固まってしまった八代を見て、店長の成春(しげはる)は何故だかわずかに困ったような顔で笑った。
「第一声で実務七年って、なあ。知ってなきゃ言えないし、それで七年なんつったら、一級目指してますってことだろう」
「どうせ取得するなら、ってことですよ」
 何か事情があるならまだしも、努力で得られる資格だというのなら、取れるものは取れるところまで軒並み取りたい。三級や二級を中途半端だと思っているわけではなく、可能なことは全部やると思っているだけのことだった。
 造園技能士になりたいと明確に思ったことはなかった。そもそも、これまで進路を真剣に考えたことなどなかったのだ。
 なのに、八代は造園技能士という職を知っていた。それがどのようにして得られる資格なのかも。
「照れるな照れるな。安心しろ、実務二年以上か三級持ってりゃ二級受けられる。二級持ってれば、合格後二年以上の実務でいい」
 八代は迷惑そうな顔をつくって、溜息(ためいき)をついた。
「それで資格が取得できるわけではありませんよね」
 成春は八代の反応をまったく意に介さず、少年のような笑顔で頷いた。
「うん、取得できるのは資格じゃなくて、受験資格だな。学歴とか職業訓練歴なんかで多少変わってくるが」
 季節は春を過ぎ、梅雨を待つ頃だった。大気が湿り気を帯びていて、時折()せ返りそうなほど暑くなることがある。
 それでも八代は長袖のままだ。寿生(としき)などもうしっかり半袖で、部の作業中もジャージの腰にタオルを挟み込んでいるのに。
 制服であれば、半袖だろうが長袖だろうが、注意されることはない。ありがたいことだが、奇異な目で見られるのは避けようもなかった。けれども、今となっては八代の長袖を不思議に思う人間などいない。一年の時分からそうだったから、そういうやつなんだなで終わらせられている。もしいたとしても構わなかった。
 肌をさらすのは駄目だ。できない。
 ――怖い。
 おさないひのきずあと。
 近辺ではいちばん規模が大きい園芸店のスタッフルームで、八代は成春とふたり、逃げることもできず机を挟んで向かい合っていた。スタッフルームは店の一角にある雑貨スペースの奥だ。
 雑貨スペースといっても、小さいながらにきちんと家屋が建てられている。赤い屋根瓦がかわらしい、おもちゃみたいな家だ。置かれているのは主にオーガニックの石鹸(せっけん)やアロマキャンドルだが、少し視線をずらした先には、硝子(がらす)製のチェスセットやアンティークの雑記らしきものなんかが置いてあった。それらよくわからないもの、園芸とは関係のないもの、関係がありそうでないものは、雑貨スペースを担当している氷室(ひむろ)砂奈江(さなえ)が仕入れてきている。このあたりの関係がどうなっているのかは、よく知らなかった。
 お情け程度のロッカーが、狭い部屋をさらに狭くしている。はみ出たスタッフの私物らしきものや、ペットボトルなんかが薄く平たい豆腐みたいな天板に載っていた。白い壁には、ゴッホの『ひまわり』。その下に備えつけられている棚の上に、古いがよく磨かれ、愛されている白磁(はくじ)の花瓶があった。かたちはどっしりと安定した丸い水瓶型だが、色味がやわらかいからか、重苦しくは感じない。
 もう向日葵(ひまわり)が咲いている。
 やさしい白磁の花瓶に()けられた晴れた黄色が目に(まぶ)しい。
「好きなんだろ、やるの」
 もちろん好きだ。そうでなければやっていない。
 高校三年生のこんな時期に、わざわざバスに乗って、けして短くない距離を歩いてここまで来ている。
 そして、給料はもらっていない。
 ボランティアだから学校には届け出を提出していない。足を向けるのは土日のみ、しかも不定期。学校での部活動を終えてから来ている。
 頼み込んだのは八代だった。
 高校二年の十二月。陽射しの(もろ)い寒い頃に、梅が売られていた。枝垂れ梅。むろん、その時期その場所で突然売り出されたわけではない。前々からあったものだ。
 ずっと気にかけていた。
 どうしても欲しい園芸書があって、近所にはそれがなくて。注文すればいいのだけれど、それも()れったかった。パソコンがあればインターネットの通販でよかったけれど、あいにく家にパソコンはない。必要性を感じられなかった。レポート含め、作業だけなら図書館へ行けば済む。
 だから久方ぶりに駅前の大きな本屋まで足を延ばしたのだ。無事に本を購入して、たぶん、機嫌がよかったのだろう。嬉しかったのだ。大きくて分厚い本をぶら提げているのに、少し歩きたくなったのは。
 とりあえず駅に辿り着ければ家へは帰れるわけだから、と、八代にしては信じられないほど散歩した。
 春まだ遠い寒い日。重い本。雲は低く垂れ込めて、今にも雪が降ってきそうだった。
 耳が千切(ちぎ)れそうだったのも、(ほほ)が冷たく乾いたのも覚えている。吹く風は鋭く(とが)っていた。
 本当に、散歩日和とは程遠い日だったのだ。
 それでも八代はその寒い中を歩いて、偶然見つけたのがこの園芸店だった。入らずにいられるわけがない。
 圧倒されるほど広いとはいえないが、小規模と断じてしまうには大きすぎる。温室もあったし、奥まったところにはエクステリアの相談室もある。新しい庭への引っ越しを待つ木も、地に植えられてずらりと並んでいた。
 そこで例の枝垂れ梅を見つけたのだ。
 二万七千円。
 信じられない値段だった。
 細身ではあったが八代の伸長より高く、枝ぶりも悪くない。手ひどい傷がついているわけでもなかった。それが二万七千円。
 何故と思うのと同時に、
 ――欲しい。
 と思った。
 そして、欲しいと思った次の瞬間、それが叶わないことに気づいて、気持ちは泡のようにばらばらになって消えてしまった。金の工面を考えたのではない。百万や二百万ではないのだ。高校生のアルバイト代でじゅうぶん買える。
 植える場所がないことに気づいてしまったのだった。
 どこにもないのだ。好きな花を、気に入った木を植えられる場所が。だから諦めるしかなかった。金があるだけでは駄目なのだと、知っていたことを再確認した瞬間でもあった。
 頭ではわかっている。納得するも、納得できないもない。物理的なことだ。しかもそれが庭ともなれば、今月はおやつを我慢する程度でなんとかなる範疇を超えている。わかってはいるのだ。諦めるしかないと、
 ――わかっていたのに。
 結局想いはふり切れなかった。
 その代わり、眺めて満足することにした。割り切ってみるとこれが結構な効き目で、ついでに、八代はそこで、手に入らなくても何かで代替(だいたい)して心を落ち着けるということを学んだ。
 そうして、年明け。梅があった場所は空席になっていた。ああ引っ越したのかと思って、次いで一度も触れていなかったことに気づいた。一度だけでもいいから、枝の一本にでも触れておけばよかった。
 何かが変わったわけではないだろう。
 できることなどなかったし、今でもない。でも、触っておけばよかったなあと――後悔というより、後悔をすり抜けた憧憬(どうけい)だった。悔いるにはあまりにも淡すぎたのだ。なんとなく夢心地の部分があった。
 なんだかもどかしかった。
 欲しいと思った。努力すれば買えるけれど、買っても場所がないことに気づいた。場所は一朝一夕でなんとかなるものではないと理解していた。でも思い切れなかった。眺めて満足することにした。なかなか悪くない気持ちだった。
 ひとつずつふり返ってみても、苦い思いはまったく湧いてこない。ただ、ぼんやりともどかしい。明確な諦めを得られなかったのが引っかかっているのだ。これまでずっと諦めてきて、諦めて見ないふりをして、自分を誤魔化(ごまか)すのが当然だと思って生きてきたから。
 そんなに欲しかったのだろうか。
 少し違う気がした。
 確かに欲しいと思ったけれど。
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