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 話が変わったのか変わっていないのか、曖昧(あいまい)なまま成春に言われて、それでも八代は左右の両手を開いて見せた。
「どっちでもいいが、じゃあ両手かな」
「ではこのままどうぞ」
「よし、その格好のまま止まっとけよ」
 そう言い置いて、成春はスタッフルームのさらに奥の部屋に引っ込んでしまった。八代は言われたとおりに手を開いた格好のままだ。
 ややもしないうちに成春が戻ってきた。
「これ。受け取ってくれ」
「は、――」
 両のてのひらにぽんと置かれたのは、茶封筒だった。何も書かれていないが、中身が何かなど想像に容易(たやす)い。
「手紙ですか」
 それなら助かる。そうであってほしい。
 成春は片眉を跳ね上げた。
「手紙か。入れればよかったな」
 ということは、やはり想像しているものが入っている。
「いただけません。ボランティアです」
「交通費だよ」
「ボランティアなんです。いただけません。――いただきません」
 (かたく)なな八代の調子を見て取り、成春の眉が下がる。なんとも情けない顔で笑った。
「そんなら卒業後にうちでバイトしてくれ。こっちの希望は正社員だが、バイトからってのも悪くない。祝い金の先払いだ」
 そんな話、聞いたこともない。
 答えかねていると、
「ボランティア、なあ。……手伝ってくれた子どもに駄賃わたすのは悪いことか?」
 困ったような微苦笑とともに成春に言われ、八代は肩の力が抜けてしまった。
「子ども、ですか」
「子どもだよ」
 断言されても不快には思わない。くすぐったい気持ちに似ていた。気恥ずかしいながらも嬉しいと言えるほど、はっきりとした感情ではなかったけれど。
 なんともいえない、何も知らない他人からすれば無表情にしか見えない八代の顔を見て、
「俺のいちばん下の息子、今年二十歳だもん。親にとって子どもはいくつになっても子どもでさ、それこそ三十になったって子どもなんだけどな、そういう扱いする対象がまだ二十歳だよ。厳密に言えば今十九で、成人もしてないんだ。久我はその息子より下なわけで、そしたら俺からしたら息子と同じ子どもだよ。……馬鹿にしてるわけじゃない」
「それは……わかります」
「まあ――」
 成春が両手をまっすぐ前に突き出し、うんと伸びをする。次いで左肘を右手で持って伸ばし、今度は逆の手で同じようにして伸ばした。
「ボランティア、だもんな。これは俺が悪いか」
「責めているわけではありません」
「わかるよ。でも、……よく働いてくれるからなあ。労働の対価となり得るのは金銭のみって思ってるわけじゃないが、ほかに何を支払えばいいかっていうとな……」
「花に囲まれて幸せですよ」
 しらっと本音を告げたら、
「本心で言ってるんだからすごいよな」
 成春は明るい声で笑った。



 脱いだ靴をきちんと(そろ)えて(わき)に置き、電気を()ける。もうすっかり習慣になってしまった。以前は、電気を点けることすらしなかったのに。
 手を洗ってから寝室に鞄を置いて、脱いだ学生服はもちろんハンガーにかける。これもしっかり習慣になった。今となっては、よくもあれだけぽいぽい脱ぎ捨てていたものだと思う。
 週に一度来ていたハウスキーパーは月に一度に頻度(ひんど)を減らした。八代の(ふところ)と判断で契約しているものではないから、いきなりの終了は難しい。言い出しにくかった。何故と質問されたときの返答を持っていない。
 現在は部屋の大雑把な掃除は八代自身がしている。幸いにも部活で(つちか)われた整理整頓能力があったし、そもそも園芸部の活動内容には掃除も含まれているから、それほど苦にはならなかった。もともと物に執着がないから、部屋は殺風景なほど整っている。
 キッチンに回ってグラスに水をたっぷり入れて、ひとくち飲む。ウォーターサーバーはとうにない。ここ最近は、ミネラルウォーターも買ったり買わなかったりだ。美味い紅茶を飲みたいときだけ買ってくる。理由は、水道水でも気にせず飲めることに気づいたと、それだけのことだった。浄水器がついているのだからじゅうぶんだ。
 飲み水は飲み水として別に購入するものであり、掃除はハウスキーパーがしてくれるもので、洗濯はクリーニングに出しておけばいい。生活とはそういうものだと思っていた。
 必ずしもそうではないのだと知ったのは最近だ。そういう生活が当たり前であるのはマイノリティだということを知ったのも、それと同時だった。精神的な問題はさておき、八代は物質的にはとても恵まれている。
 それはわかった。納得した。知らなかったことを恥じる気持ちがなかったわけではないけれど、だからといって心が静まったかといえば、そんなことはない。
 養父が与えてくれている物質的な豊かさは、彼が八代を遠ざけておきたいからなのではないかと。
 それさえ与えておけば顔を合わせずにいられるから、だから。
 そのためだけに支払われている、長期的でひどく曖昧な、中途半端な手切れ金のように思うのだ。
 真実養父がどのように考えているのかは知らない。盆暮れ正月も無関係だし、葉書の一枚もなく、電話の一本もない。便りのないのは元気の証拠とはよくいったもので、八代と養父は悪い意味でその言の恩恵に与っている。
 本当に元気なのかどうかは、知らない。
 深い息をつく。ふと見た視線の先、ソファの上に、薄い茶色の(かたまり)がころんと転がっていた。
 水を飲み干し、グラスをシンクの上に置く。静かに置いたつもりだったのに音が響いた気がしたのは、八代の胸が不安で(ふさ)がれている証拠だった。
 さすがに外はもう暗い。電気は明るくて、静まり返った部屋が不自然なほど白かった。
「……似てる」
 薄茶色の塊はふわふわしている。丸っこい。手に取ってソファに沈み込むと、もう何度も確かめたにもかかわらず、また前から後ろから、上から下から眺めて、やはりいつもと同じ台詞を呟いた。
 ポメラニアンのぬいぐるみだ。
 これが実によくできている。大きさは八代の両手に乗るほどで、もしかしたらポメラニアンの子犬はこのくらいの大きさなのかもしれない。小さな手足には肉球もしっかりついていて、きちんと揃えて行儀(ぎょうぎ)よくお座りをしている。黒いつぶらな瞳と、笑っているようなくちもとに愛嬌があった。耳もふわふわした毛から少し飛び出している程度で、とにかく全体的に丸っこい。
 伊織(いおり)からのプレゼントだった。なんとオーダーメイドだという。
 ――誕生日おめでとー、やっしー先輩! かわいがってあげてね!
 見れば見るほど似ているのだ。本人――本犬はきりっと座っているつもりなのだろうが、(はた)から見ているぶんには間が抜けている。精一杯きりっと座っているつもりなんだろうな、ということが伝わってくるから余計に間抜けに見える。どうにも緊張感に欠ける顔立ちだ。ただ、利発そうではある。
 ――賢くて、人懐っこい。
 (ひろむ)の特徴をよく(とら)えていると思う。犬種を限定して連想したことはないと思っていたが、そんなことはないのだった。
 寂しいときは一緒に寝てね、なんて言われたのを思い出した瞬間に、寝室に入れられなくなった。趣味云々(うんぬん)の話ではなく、単純に照れたのだ。
 伊織は一言も、このぬいぐるみを弘だとは言わなかった。八代だって、弘がポメラニアンに似ている気がするとは、少なくとも伊織には言っていない。ついこの間まではっきりと結びつけていなかったのだから、これは間違いない。
 だというのにぬいぐるみはポメラニアンで、おまけに驚くほど弘に似ている。
 自分でも馬鹿馬鹿しいとは思うのだが、寝室に入れるのが(はばか)られた。大体、ぬいぐるみと一緒に寝る趣味もない。でもやっぱりどうしても弘が重なるものだから、放っておくのも忍びなくて、仕方なくリビングのソファの上に座らせている。で、大抵転げている。
 床やなんかの安定した平らな場所に置けば自立するのだが、床に置いておくのも……これもやはり、なんだか申し訳ない気持ちになった。
 だからソファの上が彼女の居場所だ。そして、ここでは何度座らせてもいつの間にか転げている。何もないところでつまずく弘の常日頃が反映されているようで、先入観を取り払うにせよ似ていると思わざるを得ない。この間抜けな顔が悪いのだ。
 ぬいぐるみには名前をつけるものらしい。
 名前をつけてもらった日が、そのぬいぐるみの誕生日になるのだそうだ。
 なんともメルヘンでファンタジーな話だと思う。
 弘の部屋には大きなシロナガスクジラのぬいぐるみがある。余裕がなかったから目に入っていなかったわけだが、落ち着いて見たとき、何故気づかなかったのかがわからないレベルの存在感だった。
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