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 名前は、『くの字』。
 誕生日は八月二十一日。家族で水族館へ行った日らしい。水族館へ行けばクジラを見られると思っていた幼い弘は、どんな反応をしたのだろう。がっかりしただろうか。それとも、そんなに大きいのかと驚き、感動しただろうか。
 きっと後者だろうなと思う。
 ともあれ、そのときみやげに抜擢(ばってき)されたのが、体長百八十センチ近くある巨大なシロナガスクジラのぬいぐるみだった。
 きれいな白い毛並みだった。なんでも、ぬいぐるみを綿から一新して洗ってくれる『ぬいぐるみの病院』なるものがあるらしく、そこの世話になっているのだそうだ。
 手の中でポメラニアンをころころ転がしながら、溜息をつく。
 名前はつけられそうにない。



 味気のないグレーの机の上に、陽の光を反射した琥珀(こはく)(いろ)が揺れている。開け放した窓から吹いた風に感じ入るところがあったのか、背の低いグラスの中の麦茶の氷がからりと鳴った。
 生徒指導室は大きな(くすのき)の陰に沈んで薄暗い。その陰のむこうに広がる景色はこれ以上なく明るかった。もうすぐそこまで夏が来ているのだ。
 それは、八代に残された時間にもうほとんど猶予(ゆうよ)がないことを示していた。
「これは俺のポリシーでもあるんだけどな」
 日向の教室だったなら、彼の頭はつるりと照っていただろう。禿頭(とくとう)の年配教師はベテランの生徒指導教諭だ。
 彼は自身の禿頭をてのひらで()でながら、はあ、と息をついた。
「おまえの成績ならどこの大学だって選びたい放題で入れるぞって言いたくなるなあ……」
「ありがとうございます」
 どのように反応したらいいのか判じかねて、八代は結局、(ぼう)とした声で礼を述べた。
「この台詞(せりふ)は教師としては使っちゃいかんと思ってる。でも言いたくなるんだよ」
「ありがとうございます」
 放課後に呼び出された理由は明らかだった。八代もわかってはいるのだ。今の時期に進路希望用紙が白紙だなど、たとえ進学校でなくても問題に違いない。
「……ご心配をおかけして、申し訳ありません」
 目を伏せて言ったら、禿頭の教師はあたたかい溜息をついた。
「生徒の心配をするのが教師の仕事だよ。そんなこと謝らなくていい。おまえみたいな生徒の前例なんて、掃いて捨てるほどある」
「そうなんですか」
 鷹揚(おうよう)に頷いて目尻を下げる教師を見て、八代はどこか不思議な気持ちがした。
 自分はどこに行ってもイレギュラーで、(はじ)かれるのが当然だと思い込んでいたし、それを割り切って生活してきた。だから、大勢の人間と同じだと言われたのが新鮮だったのだ。
 特別ではないのだと真っ向から言われて、八代は安心と、それでもやはりわずかばかりの不安を覚えた。
 過去にどんな人間がいて、その人物の環境がどれほど八代に近かったとしても、結局は他人の話でしかない。特に進路のことともなれば、参考になどできない気がした。
 禿頭の教師は生徒から面白半分に『鬼の竹下(たけした)』と呼ばれている。由来は言わずもがな、生徒が過ぎたおいたをした際の雷の落とし方がえげつないほど恐ろしいからだが、普段の彼は仏像のようだ。丸みを帯びた顔に糸のような細い目、厚めの唇は口角が上がっている。
 竹下教諭は再び禿頭を撫でた。
「そうなんだよなぁ。成績がいいやつほど迷うっていうの、あるよ。自分の能力を持て余してるようなのもたくさん見てきた。でも、それぞれなんとかどうにかして卒業していくもんだ」
「そうでしょうか」
「信じろよ。何年この教室で問題児相手に渡り合ってきたと思ってんだ」
「問題児ですか」
 すっぱり言われたのがおかしくて、思わず笑みが(こぼ)れた。八代の笑顔を見て安心したのか、竹下教諭も破顔する。
「問題児だよな。今の時期になって進路希望用紙白紙なんて、なかなかの大物だよ」
「照れますね」
「褒めてない」
 呼び出されてすぐ椅子を(すす)められたものの、八代は丁重に断った。立ったまま竹下教諭の話を聞いている。
 全開にされた窓を背にしている堅肥りの竹下教諭の姿は、逆光で暗い。彼の肩越しに広がる梅雨間近の景色が眩しかった。
 また風が吹く。
 ぬるい風だ。
 なんとはなしに麦茶に目を遣ると、氷はほとんど融けていた。コースターを使っていないから、グラスの水滴が机に染みをつくっている。
「久我、変わったよなあ」
 唐突に言われて、八代は
「……はあ」
 と、なんともいえない応答をした。
「修学旅行に来なかったのはおまえらしいと思ったけどな」
「思われましたか」
「思った。心配したぞ」
「ご心配をおかけしました」
「ほんとだよ」
「……変わったでしょうか」
 これまでと変わったかどうか。
 それは、八代が気になっていたことだ。
 弘と一緒にいるようになって、八代のどこかは確かに変化した。改革、革命が起きたといっても差し支えないほどの変化だと、自分では思う。なのに、周囲の八代に対する応じ方に変化は見られない。
 それが不安なのだ。
 一体何が自分で、どんな自分が自分自身なのか、わからなくなっている。
 自分の在り処がわからないのだ。自身の違和感に気づいてからというもの、八代は頼りない迷子だった。
「去年の冬頃からかなあ。一気に変わったな。成績が跳ね上がったからそう思うんじゃない。顔がな、違うんだよ。自分ではわからないか」
 やさしい目で問われて、八代は思わず指先で頬に触れた。
柘植(つげ)に感化されたかなって思ったよ。あいつほど影響力の強い生徒も珍しい」
 穏やかな笑顔で弘の名前を出されて、戸惑う。核心を突かれたからというのもあるが、それ以上に、やはり弘の欠片を身体に受けたのだと再確認したからだ。
 安堵(あんど)するのに、不安になる。
 弘に占拠されていく。
 安らぎを与えてくれる細い指が、やわらかなキスが、八代の空虚を少しずつ埋めていく。それだけ見ればいいことなのに、時折、言葉にできないほどの焦燥(しょうそう)に焼かれることがある。
「……進路希望、いつまで待ってくださいますか」
 成春から勧誘を受けたことを思い出しながら尋ねた。
 自分は何をしたいのだろう。
 花は好きだ。
 でも、好きなものを仕事にして苦しくなりはしないだろうか。
 その堂々巡りだ。
 進退(きわ)まっている。
 時間は一定方向にしか流れない。こんな問答をしている間にも、八代の猶予期間の蝋燭(ろうそく)はじりじりと短くなってきている。


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