back  |  next   



 どうせ部活に遅れた身だ。こんな乱れた心持ちで、寿生はともかく弘には会いたくない。何せ、現在の八代の不安の出どころは八割ほど彼女なのだ。
 今さら怯えて牙を()くようなことはないが、傷つけることを言ってしまったらと思うと怖かった。
 がらがらと図書室の扉を開ける。
 生徒の入りは三割といったところだろうか。目につくところでも何人か、知っている同学年の生徒がいる。時期が時期だから当然だろう。まるで持ち主のいない風船みたいに漂っている八代の方が珍しいのだ。
 八代はいつものようになんの音も立てず、机や本棚の間を()い、図書室でもいちばん奥まった一角へと足を向けた。
 今時珍しく背の高い本棚に囲まれているその場所は、出入り口からもカウンターからも死角になっている。逢引きには絶好のロケーションだ。
 だが、八代がそこに向かったのは、むろん逢引き目的ではない。そもそも、八代が逢引きしたい相手は、今は温室で日々の仕事に精を出している。
「ほんとにいた」
 思わず呟いてしまったが、その呟きの先にいる女生徒は顔を上げもしなかった。聞こえていないわけではなく、その必要がないと考えているのだ。
 弘が言っていたとおりだ。
 ――綾ちゃんでしたら、図書室のいちばん奥のスペースにいると思いますよ。
 逢引きスポットを独占している黒い長い髪を背中に流した綾野(あやの)は、今日も凛々(りり)しく美しかった。
 八代は何も言わないまま、彼女の真ん前の席に座る。
 沈黙しか流れなかった。
 もしかしてほんとに俺がいることに気づいてないのかな、と思いはじめた頃、綾野はやっと、
「なにか用?」
 と短く言った。
「気づいてたんだ」
「気づかない方がどうかしてる」
 図書室の空気や集中を乱してしまわないよう、声は自然と低くなる。
 空調機がある特別教室だけあって、図書室の窓はすべて閉め切られている。二階の教室に木々の陰は届かず、蝉の声がないのが不自然に思えるほどの遠い青い空が輝いていた。
名瀬(なせ)サンってなんでバイトしてるの」
 綾野との間に無駄な会話はない。彼女が望んでいないと知っているから、八代も確認を取るような質問をする気はなかった。
 綾野が質問に答えてくれるかどうか、それは彼女任せで、綾野が答えないとなったら八代は諦めるしかない。
 再び沈黙が流れる。
 綾野が手もとに広げているのは、どう見ても模擬テスト対策だ。
「大学の費用を親に借りたくないの」
 低い声で綾野が言った。
 独り言のようだった。
「高い金出して大学まで行かせてやったのにって言われたくないの。たとえ卒業してからでも全額返済すれば、言われるとしても厭味程度の効力しか持たなくなるでしょ」
「……ご両親と仲悪いの」
「最悪よ」
 淡々と答える綾野からは、これといった感情の波が見えない。前からこんな感じだっただろうか、と考える。
 最初に会ったときはどうだっただろう。
 苛々(いらいら)していた。
 何かに怯えていた。
 伝えられない想いが彼女の眉宇(びう)蒼白(あおじろ)(くも)らせていて、八代に対する嫉妬が本来はやわらかいのだろう唇を硬くさせていた。
 今はどうだろう。
 いくら見つめてみても、かつての綾野の影は見当たらない。
 彼女は静かに()いでいる。
 何かを得たのだろうか。それとも失ったのだろうか。
 諦めたのだろうか。
 言葉があってもわからないのに、八代と綾野の間にはろくな一言もない。それで彼女の変化の一端がわかるはずもなかった。
「名瀬サン、将来の夢っていうの、ある?」
 ――もし就職希望なら、ここに来ないか。
 評価してもらえるのは素直に嬉しい。でも、飛び込む勇気はまだ持てない。
 綾野は参考書とノートに目を落としたままだ。
「今のところない。だから返済したいのよ。何を選んでも文句を言われないように、不安要素は徹底的に叩き潰しておきたいの」
「結構過激だね」
「自分の身を守るためなんだから、過激にもなる」
 それもそうか、と納得した。
 ――叩き潰す。
 (みやび)もそんな言葉を使っていた。綾野も弘に強い影響を受けたひとりだろう。その延長線として、雅からも多少なり影響を受けたところがあるのかもしれない。
「話す相手が違うんじゃないの」
 不意に綾野が顔を上げた。問われた意味をはかりかねて、八代は感動詞も口の()にのぼらなかった。
「この手の話をしなきゃいけないのは、あんたの場合弘なんじゃないの。あたしのことなんかどうでもいいでしょ。なんの意味があるの」
 綾野も大概、疑問符がついていない。確かに冷たく聞こえるなと、ぼんやり思った。
「もし逃げてるんだとしたら、あたしはあんたを軽蔑する」
 真正面から見据えられて、返答が見つからなかった。
 自覚はないが、逃げているのだろうか。
 ――そうかもしれない。
 怖い気持ちはある。後ろめたいのだ。弘が何も考えていないとは思えない。対して八代はこの体たらく、合わせる顔がないという感覚に近い。
 弘がどんなものを抱いているのか八代は知らないし、予想もつかなかった。考えてみても、家を継ぐのかなという程度のものだ。
 軽蔑すると吐き捨てた綾野の言葉は、まるで刃物のようだった。透明で薄く、きらめくほど鋭い(やいば)
 それでも傷つかなかったのは、確かに綾野は八代の人生と深く交わらないからだろう。どうでもいいと切って捨ててしまえるほど残酷にはなれなかったが、彼女の人生設計に口を出せる立場にはいない。
「弘と話しなさいよ。せめてそれくらいのことはちゃんとして」
 綾野が(うつむ)いた。
 深い息をつく。
 ペンを置き、両手で顔を覆った。
「そうじゃないと、」
 綾野の穏やかな声が不規則に揺らいだ。
「あたし、あんたを(うら)みそうなのよ。収まりかけたのに……そんなふうになりたくないの。だから、……お願いだから、あたしのところになんか来ないで。……弘と話して」
 震える声は切羽詰まっていた。
 back  |  next



 index