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 そこではじめて、八代は自分がどれほど無神経で無様(ぶざま)醜態(しゅうたい)をさらしているのかを自覚した。
「ごめん」
 謝った小さな一言は届いただろうか。
 綾野は顔を上げないままだ。
 八代は立ち上がった。
 綾野の前から立ち去るしか、彼女の心をこれ以上傷つけずにいられる方法がなかった。



 どんなに落ち込んでいようが、弘と徹底して会わないという選択ができないのが現状だった。そんなことをやってしまっては、それこそ逃げている。
 だから、八代は結局温室に向かった。
「あ、久我先輩! おかえりなさい」
 ジャージの腰にタオルを挟んだ寿生が、空の鉢を重ねて運んでいる。八代を見つけると、人懐っこい笑顔を浮かべた。
 そういえば、彼もはっきりとした目標を持っているのだ。小学校の理科の先生になりたいから進学校を選んだんです、ということは、どんなに少なく見積もっても高校受験時には明瞭な地図を引いていたことになる。
「ただいま」
 なんとも不思議なもので、寿生は温室に来る八代や弘を「おかえりなさい」と言って迎える。少し席を外すとなれば、当然「いってらっしゃい」。今日は八代は今はじめて温室を訪れたわけだが、やはり挨拶(あいさつ)は「おかえりなさい」だった。彼の中では、教室よりも温室が拠点という認識なのかもしれない。
「裏のクレマチス咲いてますよ。記録見ると、例年よりちょっと遅いみたいですけど。咲いてるの見ましたか?」
「見てない」
「柘植先輩が花の数数えてます。鉢は俺が片付けますから、行ってみてください。ほんとにきれいに咲いてるので。うわっと」
 うわっと、というのはなんだ、あれか、勢いよく、とかそういうのを表しているのだろうか。
「じゃあお言葉に甘えて。ありがとう田崎(たざき)氏、今日の茶請けはマドレーヌだよ」
 マドレーヌってなんですっけ、カップケーキですっけ、とか言っている寿生に鉢を任せて、八代は温室の裏手に回った。
 育てているのは薔薇(ばら)だけではないのだ。品評会に出さないだけで、クレマチスや数種類の菊やなんかも育てている。
 温室の裏手、硝子張りの壁面を伝うようにして、トレリスに絡まっているクレマチスは元気だった。(きわ)がふりふりと波打っていて、花びらは白い。中心にうっすらと紫色が入っている。
「柘植サン」
「はい。――久我先輩。おかえりなさい」
 ノートから顔を上げた弘が微笑んだ。彼女も寿生に影響されたらしく、最近の挨拶は「おかえりなさい」と「いってらっしゃい」だ。
「とってもきれいに咲いていますよ」
 ――竹下先生のお話はどのようなものだったのですか?
 尋ねられたらどうしようと思っていた。答えにくいからだ。
 弘は言及を避けてくれた。たぶん察しがついているのだろう。
 ありがたいはずなのに、寂しい気がする。心細い。
 弘にどうしてほしいのかがわからなかった。でも、これだけはわかる。
 彼女がどんな反応をしても、何を言っても、きっと八代はつらくなる。遠いのだ。果てしなく遠い。八代は何も持っていなくて、自分自身の面倒すらまともに見られず、将来に対してもはっきりとしていない。
「うん。ほんと、今年もよく咲いてくれた」
 弘の隣に屈み込んで、咲いている一輪に指先でそっと触れた。
 ひんやりとやわらかく冷たい。
 いつもなら触らない。触れた個所から(いた)んでしまうからだ。わかっているのに耐えられなかった。
 本当に触れたいのは弘だ。
 彼女の甘い肌に触れて、たとえいっときのことでしかなくても、そのあと一層強くなった不安や孤独に(さいな)まれるとしても、安堵したかった。
 ――触れられるわけがないのに。
「先輩」
「なに?」
 ノートを閉じて、弘が八代の瞳を(のぞ)き込む。にこ、とやさしく笑った。
「一緒に帰りましょう。一緒におやすみしましょう」
 何もかも見透かされている気がする。
 鷹羽(たかは)に対してもそう感じた。
 きっと、どんなこともすべて隠せていないのだ。八代が自覚できていないことすら()れ出ているのだろう。ほかには誰に気づかれているのだろうと思うと、胸が苦しくなる。
「……うん」
 それでも八代は頷いた。
 弘が逃がしてくれないことは知っているし、八代には逃げる気力がなかった。
 前進は受動では得られない。
 わかっていても。
 わかってはいるけれど。
 でも。
 動けない。



 そろそろ暑くなってきましたね、と話しながらの帰路だったから、リビングに入った途端
「おかえり。レモネードつくったよ」
 と、まるで待ち構えていたみたいに(ひろし)が言ったものだから笑ってしまった。
「いらっしゃい、八代君」
「お邪魔します」
 今日は木曜日、休診日なのだ。休診日となると茶の準備は大抵博がするようで、時折クッキーを焼いていたりカップケーキを焼いていたりする。対照的に、雅がそういうことをしているところは一切見たことがない。今見たことがないからこれまでもそうだったとは思わないが、弘の菓子づくりの根っこは父親譲りなのではないだろうか。
 雅から聞いたところによると、弘はストレスが溜まって限界近くになると、夜中に起き上がって深夜二時に大量のドーナツを揚げるらしい。朝起きると、ダイニングテーブルにドーナツが積み上がっているのだそうだ。
 ストレスが溜まっている弘を想像するのは難しかったが、深夜にドーナツを揚げている彼女を想像するのはそう困難なことではなかった。
「暑くなってきたからね。みーさんが元気だよ」
 それぞれ自分の席の足もとに鞄を置いて、手を洗って戻ってみれば、大きなグラスにレモネードを()れている博が愉快そうに笑った。雅は冬に弱いが夏には強い。彼女が早朝に寝ぼけず起きてきたら夏のはじまりなのだという。
「先輩、氷はどれくらいお入れしましょう。ちょっと、それなり、いっぱいの三つからお選びください」
「……それなりで」
 弘は笑顔で「はい」と了承の意を示した。椅子の座面に畳んで置いているエプロンをかけながらキッチンに回る。
「お母さんは?」
小鞠(こまり)ちゃんのとこ。電話が来てね。久しぶりにむこうでごはん食べてくるって」
 いつもの席に座ったところで、テーブルの上に氷それなりの涼しげなレモネードが置かれた。ありがとうと言うと、それだけのことなのに弘は頬を染めて嬉しそうにする。
 八代の方が照れてしまう。
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