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「小鞠はわたしの母方の叔母です」
「旦那さんと 洋菓子店。気になる。 向かいに座った博が笑った。 「八代君、甘いもの好きだよねえ」 「はい」 好きどころの話ではない。実のところ目がない。 「『comari.』という店名です」 「……ご主人がお付けになったとか?」 「そうそう。八代君、勘いいねえ。旦那さんが小鞠ちゃんにベタ惚れでね」 ――甘いもの好きだよねえ。 表明したことはない。 これまでの食事から察してくれたのだろう。八代はなんでも食べるけれど、味の感想は顔に出ない。なのに、柘植家のひとびとはわかってくれるのだ。 レモネードも少し甘めだった。 蜂蜜のとろりとした、わずかに 「先輩さえよろしければ、いつでもご案内いたしますよ。フィナンシェがとってもおいしいのです」 「オレンジピールもおいしいよ。かわいい袋に入れて売ってくれてる」 八代は伏し目がちに「はい」と返事をすることしかできなかった。 自身を取り巻く環境に許容があることは理解したけれど、身体は これまでずっと、八代にそんな笑顔を向ける人間はいなかったから。 「ねえ、柘植サン」 「はい。なんですか、久我先輩?」 狭いベッドに並んで横になる。上掛けはもう薄いものに変わっていた。まだくっついて寝ても大丈夫だが、もうじき暑くなるだろう。弘の部屋にエアコンはない。扇風機で追いつくだろうか。 八代の寝室ならエアコンがある。 ベッドも広い。クイーンサイズなのだ。ふたりで寝ても余裕がある。 だからといって誘えるかといったら、 ――できるはずない。 していいとも思えなかった。 ころんと身体ごと向いてくれた弘に、八代はすぐには言葉を発せなかった。 カーテンの外は明るい夜が開けている。明日も晴れるだろう。あまりにも 闇の中、かすかに石鹸が香る。 「柘植サン、進路希望先ってやっぱり歯科関係?」 弘は 「歯科関係ではありますが、学校に進もうかどうかは悩んでいます」 意外だった。 「小さな頃は、歯医者さんになる、と思っていたのですが、大きくなるにつれ、わたしがしたいのは治療ではないのではないかと思うようになったものですから」 「今は? 何をしたいのかわかった?」 暗い。 静かだ。 何も怖がらなくていい場所。 「はい。トリートメントコーディネーターを目指しています」 聞き慣れない名称だった。 「どんな仕事? ごめんね、無知で」 弘がふふっと笑う。 「無知だなんて思いません。トリートメントコーディネーターは……そうですね、歯科医院におけるコンシェルジュ……のようなもの……でしょうか。患者さんとのコミュニケーションを密に取ります。最新の治療や予防ですとか、何故それが必要なのかをご説明するお仕事です。カウンセリングも承ります」 そこまで言って、ふっと息をつく。 「医療事務管理士技能認定試験は受けますが、歯科衛生士の資格は取ろうかどうか迷っています」 「医療事務管理士技能認定試験って、受験資格ないの?」 「ありません。独学でも大丈夫です。ただテキストが販売されていませんので、独学を選ぶとなるとかなり困難な道になります。講座の受講が一般的なのではないでしょうか。四ヶ月から五ヶ月程度の期間です」 「どんな問題が出るの?」 弘に触れたい気持ちと、怖がる気持ち、両方がせめぎ合っている。 触れていいものではないのだ。本当の意味では、自分は彼女に触れてはいけない。 伊織は弘を指して頑丈だと言ったけれど、八代が持っている毒は明言化できるほど中途半端なものではない。 「学科は択一式の筆記、実技はレセプト点検問題、レセプトの作成です。学科試験につきましては、法規、保健請求事務、医学一般になります」 「なんで目指そうと思ったのか訊いてもいい?」 「はい。……小さな頃、わたしは『何故』『どうして』がものすごく強かったそうで……父の仕事にも強い興味を持っていたのです。今はもう定年退職されてしまったのですが、 説明のプロなのだ。 弘に合っている気がした。 やさしく、親切で、笑顔で。わかりやすく説明してくれる。 「資格は持っていて邪魔になるものではありません。ですが……わたしは、なるべく早く現場に出たくて」 深い溜息をついた。小さなやわらかい手に指を引かれる。八代は少し迷って、それから彼女のてのひらをほんの少しの力だけで握り込んだ。 一瞬にして罪悪感が心を覆った。 思わず手を離す。弘は何も言わなかった。 「歯科医院でのアルバイトをしながらの夜間部もあるのです。それでも、……その三年が……とても長いような気がして……」 成春が脳裏を ――……なあ、もし就職希望なら、ここに来ないか。 「博さんと雅さんは、なんて?」 深い呼吸を繰り返していた弘が、少し緊張を緩めた。 「父は、慌てることはないと。母からは、後悔してもいいと思えるくらい、自分で考えて自分で選びなさいと言われました」 博らしい意見だし、雅らしい意見だった。 後悔しないように、ではなく、後悔してもいいと思えるくらいの選択をしろ、と。 厳しい言葉だ。 |
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