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 弘は何を選ぶだろう。
「先輩のことをお聞きしてもよろしいですか?」
 小さな声だった。
 気遣ってくれている。
 成春よりも、竹下教諭よりも、綾野の姿が目の前にちらついた。
「決めかねてるってところかな。……好きなものを仕事にしてやっていけるかどうか、自信を持てない」
「お花ですか?」
「うん」
 言おうか。
 言わない方がいいのか。
 八代は弘の視線から逃げた。
「就職のお誘いをいただいてるんだけどね。ありがたいとは思うけど、身ひとつで飛び込む勇気は持ってない」
 何をしたいのか、なんて、あまりにも高すぎる。何をしたいのか以前に、八代は己の在り処がわかっていないのだ。八代は八代でしかないから、何ものかになりたいなんて思わないし、何ものであるかという疑問も持たない。
 ただ、自分がどこにいるのかがわからない。
「俺はこれまで、死んでたわけじゃないけど、生きてたともいえないようなものだったからね。いきなりそんな地に足のついた選択はできないんだよ」
 弘に抱かれていてさえ心細い。
 過去の嘘が、誤魔化しが、暴力が八代を追い詰める。
「有体に言うと――月並みっていう方が正しいのかな。……これまで、自分の(から)に閉じこもってたから。それも必死でね」
 自分を自分から守るために、必死で世界を閉じていた。
 すべてのものがそうあるように、八代の世界もまた、彼自身の内側に構成されている。だからどんな殻に閉じこもっても逃れられるはずがないのに、わかっていてもそうするしかなかった。
 恐ろしかったのだ。
 夢にまで出て追いかけてくる狂乱の母と、顔も知らない実父、無関心な養父、自分自身を傷つけ続ける『八代』が。
 どこにいても居場所がないから、自分の内側に殻を組み立て、一筋の光も入らないように暗く閉ざして過ごしていた。
「殻は割れましたか?」
 穏やかな微笑の弘に(さや)かな声で問われて、八代はふと息をついた。
「……ひびが入った程度だよ。割れるなんて、――いつになるか」
「程度、ではありませんよ。大躍進です」
 やわらかな手に頬を包まれた。
「将来のお悩み相談してしまいましたね」
「……うん」
「お話しできて、少し落ち着きました。ありがとうございます」
「なんのアドバイスもしてないよ」
 弘が楽しそうにくすっと笑う。
「聴いてくださった、それだけでじゅうぶんです。アドバイスをいただきたいときは、またお話ししますので、聴いていただけますか?」
「高確率で役に立てない」
「先輩、大好きです」
「今の会話の流れで、好きですってセンテンスに通じる要素あった?」
 怪訝(けげん)な顔を(よそお)って訊くと、弘はくすぐったいみたいな笑い声を立てた。
「言いたくなったのです」
「……そう」
 零れた笑みは呆れから来るものだっただろうか。
「おやすみなさい、久我先輩。また明日」
 (ひたい)と左瞼にキスが降りてくる。八代は同じ言葉を返しながら、静かに受けた。
 何も解決していない。
 弘は不安を吐露(とろ)しただけだし、八代は焦燥の切れ端を漏らしただけだ。お互いに助言など影もなかった。
 八代の時間は、もうない。
 何かを選ばなければならない。
 八代は、自分の在り処や在り様に疑問と不安、困惑を抱いたまま、次の階段をのぼらなければならなかった。
 時間は止まってくれないのだ。



 この季節、園芸部は忙しい。
 と思ったが、よくよく考えなくても園芸部は常に忙しいのだった。追い立てられる忙しさではなく、毎日定量の忙しさがある。
「久我先輩」
「ん?」
「久我先輩が言ってたこと、ほんとでした」
 寿生とふたり、肥料の袋を抱えて温室に向かっていた。この肥料、地元の一般家庭が道端に出してくれている肥料で、なんと一キロ百円。投げ売りどころの話ではない。道端といっても、たぶんその家の真ん前なのだろうが、実際公道なのだから道端というほかなかった。
 どういう事情で出しているのかはわからない。不定期に肥料が目いっぱい詰め込まれた袋が積み上がっていて、傍に五百円玉貯金する際に使う缶の貯金箱が置かれている。
「なんの話?」
 晴れていると、もうずいぶん暑い。八代はあまり汗をかかない、どちらかといえば不健康な身体なのだが、それでも最近はじわりと(にじ)む。
 薔薇の追肥(ついひ)は年三回。今回の追肥は二番花、三番花を咲かせるためのものだ。大体六月にやるものだが、この地域はあたたかいから少しばかり前倒しになる。
「柘植先輩の英語、レベル高すぎてわかりません。ていうか、あれ明らかに教科書以上ですよね」
 よいしょ、と二袋の肥料を抱え直して、寿生はちょっとぼんやりしていた。弘のノートを思い返しているのだろう。
「『ていうか』っていうの、俺の前だけでいいから言うのやめて。あと、できれば『超』も。柘植サンの英語はね、あれは完全に実践用だから。教科書仕様にするのはテストのときだけなんじゃない? でも、丁寧に教えてくれたでしょ」
「それはもちろん。なんていうか……あっ、この『ていうか』はいいですか?」
「うん。それは『なんていうか』であって、唐突に出てくる『ってゆーか』じゃないから」
「はい」
 足もとで砂が鳴る。梅雨も間近なのに今日はとても乾いていて、わずかに(ほこり)っぽい。
 これから苦難の季節がはじまる。
 八代は気圧の変化や低気圧に弱い。ひどい偏頭痛に見舞われる。毎年梅雨は地獄を見ていた。
 でも、もしかしたら、という淡い期待を抱いてもいた。
 今年は睡眠を取れている。食事もきちんとまともに取っていた。熟睡できるのは弘と一緒に眠るときだけだから、毎日ではないけれども、これまでとは比べものにならないくらい休めている。健康の二文字には追いついていなくても、休息が取れているぶん大打撃を(こうむ)ることは避けられるのではないだろうか。現時点でも、起き上がるのさえつらいほどの偏頭痛には襲われていない。
「先輩、『ってゆーか』と『超』って嫌いなんですか」
「きらい……好きではないね。キミは苦手な言葉ってないの」
「ありますよぉ。先輩力持ちですね」
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