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 三袋抱えてけろりとしている八代に感動した面持ちで言って、寿生はうんと首を縦に振った。温室はもうすぐそこだ。観音開きの扉の把手(とって)の色まで判別できる。
「やっぱり『死ね』とか『殺す』は無理です。冗談でも言っちゃだめなやつ。映画とかで、自分も死ぬ覚悟の決死の死闘で叫ぶとかでも苦手ですね」
 ――死ね!
 重たい音を立てて袋が落ちた。三キロの土が、袋の中でぐしゃりと崩れる。
 くちもとをてのひらで覆った。呼吸が震えている。吐きそうだ。ぎゅっと目を(つむ)る。いやな汗が額に浮く。
「先輩? ――久我先輩! どうしたんですか!」
 耳もとで(あせ)った声がした。
「……なにも」
 何もないよ。
 言おうと思ったのに言えなかった。激しくえずく。
 いつの間にか地に(ひざ)をつけていた。背を丸めてやり過ごそうとするのに、収まらない。
「柘植先輩! 久我先輩が!」
 どさっと肥料を放り出して、寿生が温室に走っていった。



 しゃらりとかすかな音が鳴った。
 うっすらと瞼を開く。
 味気ない天井が広がっていた。古ぼけて継ぎ目がくすんでいる。白に一滴ごく淡い水色を垂らしたような色のカーテンに囲まれていた。
 背中が硬くて痛い。枕も平たい。粗末なベッドだ。
 静かで涼しく、かすかに消毒薬のにおいが鼻を突く。
「起きたか」
 カーテンの隙間から顔を覗かせたのは、養護教諭にして園芸部顧問の橋爪(はしづめ)(りん)だった。
「……凛助(りんすけ)せんせ、お久しぶりです」
 声は(かす)れていた。
 凛が苦笑する。細い垂れ目の目尻がますます下がった。
「そう言うなよぉ。結構顔出したじゃん。肥料買うのに車出したじゃん」
「そうでした」
 深呼吸をした。
 溜息だったのかもしれない。
「柘植と田崎が心配してたぞ。田崎なんか気の毒なくらい真っ蒼だった。泣きそうな顔してたよ」
「俺、倒れたんですか」
「や、自分で歩いてきた。すっごいふらふらしてたけど。田崎ががんばって支えてくれてたよ。さすがに十センチ以上の差があるとしんどいよな」
 覚えていない。温室のある中庭から、第一棟にある保健室までは、近いとはいえない。妙な間取りのせいで、かなり歩かなければ辿(たど)り着けない位置にある。
 その長い距離を自分で歩いてきたのか。
 信じられなかった。
「柘植サンと田崎氏は……?」
 凛は顔だけ八代に見せたままカーテンを閉じた。首もとでカーテンを集めて、なんだか生首が宙に浮いているみたいだ。
「田崎は帰った。心配はしてたけど、どうにもできんだろ。久我がかえって気、遣うだろうからって言ったらおとなしく帰ったよ。いい後輩だな。ホワイトロリータ置いてってくれたぞ」
「ほわ?」
「ブルボンのお菓子。見たらわかる。美味いよ。甘い」
 茶請けの菓子を持参してくれていたのだろう。ホワイトロリータがどんな菓子なのかは思い浮かばなかったが、甘いなら美味い。
「柘植サンは?」
 (ささや)き交わすような(ひそ)やかな声の遣り取りだ。どうしてだろう、保健室と図書室は意識していなくても音量が落ちる。これも一種の習性だろうか。
 習性になるほど、身体に学校が染みついている。
 そう思うと、なんだかよくわからない、正体を(つか)みきれない気持ちになった。
「そんな迷子みたいな顔するなよ」
 両手で顔を覆った。見られたくない。
 意識してゆっくりと、深く深く呼吸する。
 まだ恐怖の残滓(ざんし)が胸の底に(こご)っていた。
 まさか、あの程度の会話から想起されて、しかもそれに侵蝕(しんしょく)されてしまうなんて。
「柘植なら廊下で待ってるよ。あ、誤解するなよ、さっきまでここにいたからな。起きそうだったから一旦外に出てもらった。……起き抜けに柘植に会うのは、もしかしたらしんどいかもと思って」
 余計なお世話だったか、と問われて、八代は喉の奥で否定した。
 しんどいとは思わない。
 むしろ、安堵しただろうと思う。
 でも、泣いてしまったかもしれないと思うと、凛の心遣いはありがたいものだった。
「今日はもう帰るのがいい。温室の鍵は柘植がちゃんとやっといてくれたから。明日も朝は来ずにぎりぎりまで寝とけ」
「さすがにそれは……」
「先生と一年生君に任せなさーい。大体な、近年働き方改革ってのがあるんだぞ。開門と同時に仕事なんてしなくていいよ」
「好きなので」
「遅刻したらいじめるとか言うやつがよくもぬけぬけと。とにかく久我と柘植の明日は休みだ、休み」
 止まってしまった。
 弘とのことを知っているのだろうか。
 凛は鷹羽と従兄弟(いとこ)関係にある。鷹羽から聞いたのだろうか。
 ――鷹羽が言うはずない。
 彼は思慮深い。八代と弘の事情と関係は少し特殊だ。それを、いくら従兄とはいえ、無神経に話すとは思えなかった。
 凛は垂れ目を細めて笑った。保護者の顔だということくらいはわかる。
 そんなあたたかい顔を向けられているのが自分だという事実は信じがたいけれど。
「仲良く重役出勤してこい」
 軽口が親しげで、八代はかすかに笑った。
 ――仕事はしますので、なるべくひとりにさせてください。
 なんの説明もなしの要望だったのに、凛は「わかった」の一言だけで受け入れてくれた。彼とはよく知った仲だったわけではない。凛が知っていたのは、精々がところ、八代が偏頭痛を持っているといった程度のことだ。
 なのに、彼は許してくれた。
 凛の顔が引っ込む。カーテンが再び閉じられた。八代は起き上がると、ベッドから足を下ろす。
 合成皮革張りの丸椅子に鞄が置いてあった。黒いエプロンはきちんと畳まれて、鞄の上に乗せてある。
 八代はのろのろと着替えはじめた。
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