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 弘はどんな顔をしているだろう。
 ――怖い。
 そう思うと同時に、それでもなお弘に寄りかかってしまう自分には自嘲(じちょう)しかなかった。情けない、などという軽いものではない。重い。息が詰まる。
 保健室を出れば、八代を心配している弘の瞳がまっすぐに見つめてくるだろう。まっすぐ見つめたまま、「一緒に帰りましょう、一緒におやすみしましょう」と言ってくれるのだろう。
 ――怖い。
 未だに彼女の視線が怖くなることがあるのは、(やま)しいことしかしてこなかったからだ。
 自覚はある。
 叩かれなくても埃が出てくる身だ。少し触れられただけでも(ちり)が零れるのだから、きれいなものを目の前にして静かでいられるはずがなかった。
 きれいなものを目にした途端に後ろをふり向く八代自身が、自分の後ろを痛がる。当惑に気づかないふりをするのも、平静を装うのも苦心したことなどなかったのに、誤魔化しのきかないものがあると知った今では方法の先端すら思い出せない。
 疲れていた。
 凛に挨拶をして、がらりと戸を開ける。
 弘は珍しく壁に(もた)れて立っていた。鞄を提げている。いつでも帰れる格好だ。
「柘植サン」
「久我先輩」
 八代に声をかけられて、はじめて気づいたような顔だった。
「もう大丈夫なのですか?」
 眉宇が哀しげに曇っている。
 どれくらいの時間を不安と心配とともに過ごしたのだろう。腕時計を見てみたら、六時を過ぎていた。
「うん。もうなんともないよ。心配かけたね。……びっくりさせてごめん」
「謝るなんて、……そんなこと、なさらないでください。大丈夫ならそれでいいのです」
「柘植サン」
「はい」
 ――耐えられない。
 鳶色の瞳。
 八代が畏怖(いふ)する透徹(とうてつ)の瞳だ。
 八代に安らぎと恐怖を同時に与える瞳。
 何ものにも(おか)されざる神聖なもの。
「家まで送っていくよ。遅くなってごめん」
「……ご一緒しませんか?」
 弘は八代の遠回しな拒絶を(さと)く理解してくれた。
「今日は、ちょっと用事があってね」
 ほら。
 また疚しいことをひとつ増やした。
 いつからこんなに嘘が下手になったのだろう。彼女を傷つけたいわけではないのだから、嘘なら嘘で上手についてみせなければ意味がない。
 弘は微笑んだ。
 八代の下手な嘘に、気づかないふりをしてくれた。
「送っていただいては先輩がたくさん歩かなければならなくなってしまいますから。まだ明るい時間ですし、ひとりで帰ります」
「だめ。危ない」
「でしたら、自宅に電話します。先輩、どうかご自愛ください」
 ぺこりと頭を下げる。
「……気をつけて帰るんだよ」
 それしか言えなかった。
 そうして、弘と別れてから気づいた。
 彼女の顔が、心持ち蒼褪(あおざ)めていたことに。



 道場は閉まっていた。
 働き方改革の波か。部活は六時までが徹底されたのかもしれない。園芸部も大体六時を目途(めど)にして区切りをつけている。秋から冬にかけての日暮れの早い季節は、弘は先に帰していたけれども、八代は居残っていた。
 これからは居残りすらできなくなるのか。朝も(ひか)えろと言われてしまった。
 ――そういえばなんか言われた気がするな。
 凛に言われたような気もする。朝はともかく、時間内に収まっていることだから記憶から抜け落ちてしまったのかもしれなかった。
「八代、何してるんだ?」
 諦めて(きびす)を返しかけたとき、後ろから声をかけられた。
「鷹羽」
「こんな時間まで残ってるなんて珍しいな。弘君は?」
 完全に弘と八代をセットで考えている台詞だった。
「帰ってもらった。鷹羽はなにしてたの」
「僕は忘れものを取りに戻ってきた」
「なに忘れたの」
「道着」
「……忘れるものなのそれ」
「忘れたんだから仕方がない。道場に何か用か?」
「道場に用はないよ。用があるのは鷹羽」
「僕?」
 意外そうな声のあと、見つめられた。決まりが悪い。目を()らしてしまう。
「待ってて」
 鷹羽はやさしく笑んで言うと、道場の鍵を開けて中に入っていった。すぐに戻ってくる。再度鍵をかけて、八代の脇を通った。
「鍵返してくるから、門のとこで待ってて」
「……話、聴いてくれるの」
 八代の茫洋(ぼうよう)とした声に、鷹羽は明るく笑った。
「聴くよ。聴くだけでいいならね」
 助言はできないよ、と先手を打たれた。
 助言を求める予定はなかったけれど、予告されてほっとしたのは、助けてもらいたかったからかもしれない。
「あ、そうだ。どうする、家に行く?」
「どっちの」
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