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「どっちでも。凛(にい)はまだ帰ってこないし、僕のところでも落ち着いて話せると思うよ」
「じゃあそっちに行く」
「わかった」
 八代にとって、鷹羽は気を遣う相手ではない。今までもそうだったし、今でもそうだ。だから、笑顔のひとつも出ない自分をおかしいとは思わない。
 思わないのに、寄る()ない気持ちになる。
 笑顔をつくるのは得意だ。自分を守る盾になる。どれほど優秀でも常に仏頂面では反感を買い、目の(かたき)にされるだけだ。八代はそれを知っている。優秀であればあるほど度合いが強まることも知っている。だから、適度に笑みを見せ適切な場面でほどほどに話を合わせ、そして適当なところで手を抜く。
 罪悪感を覚えたことはない。
 身を守るためなのだ。必要なのだから嘘をつくくらい平気でやる。テストだって、八代からすれば馬鹿にされているとしか思えない問題でも、ああこれはひっかかりやすいだろう間違いやすいだろうと思ったところで上手につまずいてみせる。
 簡単なことだ。
 自分を誤魔化せばいい。
 たったそれだけのことで周囲は(だま)されてくれて、すべてが円滑に回る。相手が自分よりも劣っていると見た瞬間、ひとは相手を自己に都合のいいレンズに通して接する。
 八代はそれを、よく知っている。
 自分が鷹羽に対してそうだったから。
 鷹羽がこんなに頼りになるなんて、思ってもみなかった。



 リビングに通されるなり、八代は大きな溜息をついた。そこではじめて自分が緊張状態にあったことに気づく。
 きちんと整理整頓しておきたい性分の鷹羽のおかげか、凛が几帳面(きちょうめん)なのか、部屋は整っている。テレビとダイニングテーブルとソファしかない。八代の部屋も似たようなものなのだが、絨毯(じゅうたん)のあるなしで印象はずいぶんと違うようだった。八代のリビングには一応絨毯が()かれている。
 買った覚えも、選んだ覚えもない絨毯が。
「お茶でいい?」
 鷹羽に問われ、八代は少し考えて、
「紅茶淹れさせてもらってもいい?」
 と訊いた。
「いいけどミネラルウォーターなんてないよ? 浄水器はついてるけど。紅茶も格安ティーバッグだし」
「大丈夫。それなりの淹れ方すればそれなりの味になる」
「すごいな。あ、カップもない」
「大丈夫。アイスで淹れるからグラス出して」
 落ち着きたい。手っ取り早く安心するには、いつもやっていることをなぞるに限る。
「ホワイトロリータとかいうのが鞄の中に入ってるから、それ食べよ」
「おまえにしては珍しいもの持ってるな」
「もらいもの」
 勝手に(あさ)って、と言いながら薬缶(やかん)に水を入れる。位置を訊いて見つけたのは、缶ですらなかった。箱だ。開けてみたら、薄い紙に包まれたティーバッグがぎっしり並んで詰まっていた。
「……セイロン……」
 箱の(ふた)とティーバッグの包みを見て呟く。八代は箱を持ったまま、ホワイトロリータを取り出した鷹羽に尋ねた。
「ねえ鷹羽、茶葉ってこれだけ? アールグレイない? ディンブラでもいいんだけど」
「それなに?」
 諦めることにした。
 結局八代はアイスミルクティーにした。砂糖を入れて思いっきり甘くする。鷹羽に訊いたら「普通のがいい」とのことだったので、ストレートで出した。
「薄まらないうちに飲んでね」
 グラスに口をつけた鷹羽が頷く。
「それで? 八代、何を聴いてほしいんだ?」
「色々。おいしい?」
「うん。変わるものなんだね」
 本当にわかってくれているのだろうか。
「内容としては、(おおむ)ね柘植サンのこと」
「だろうね」
「鷹羽は進学希望?」
 訊いたら、鷹羽は少し止まって、それからかすかに笑った。
「弘君の話じゃないのか?」
「間接的に関わってるんだよ」
 単純なのか難解なのかわからないな、と言って、鷹羽はホワイトロリータの包装を解いた。
「進学希望だよ。司書志望だから」
 ミルクティーの甘い冷たさが喉を下りていく。
「進路で迷ってるのか」
「まあね」
(はぎ)だよね? 国公立理系」
「そう」
「進級時に選ぶ余地あっただろう」
「安定して九十五点以上取れる科目選んだらそうなった」
 私立ではなく、国公立を選んだ理由はなんだっただろう。
 思い出せない。
 なんとなく、かもしれなかった。
「ほんとに何も考えてないんだよ」
 ――柘植サン、今、なに考えてるのかなあ。
 外はようやっと色彩が暗色(あんしょく)になってきていた。ちらりと星が見える。
 ベッドの中で泣いていないだろうか。
 弘はあれで結構泣き虫なところがあるから、心配だった。
 八代だって、ここ最近は散々に泣いているわけだけれども、彼女の涙と八代の涙はまったく異なる。
 弘の涙はいつだって共感で、八代の涙はいつだって自分だけのものだった。
「今の時期に進路希望用紙真っ白なのか。問題だな」
「でしょ」
 ホワイトロリータは予想していたより甘かった。もう少し素っ気ないかなと思っていたから、嬉しい誤算だ。
「……好きなものはあるけど……」
 紅茶のグラスが電気を弾く。白く光った。融けはじめた氷のきらめきが揺れる。
 鷹羽が静かに息をついた。
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