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 毎年毎年憂鬱(ゆううつ)になるはずなのに、偏頭痛だってなくなったわけではないのに、季節を変えていく雨を待ち()びる気持ちがあった。
「私立か」
 竹下教諭が、どこか安心したような顔で言った。
 まるで迷子の子どもをやっと見つけだした父親みたいだ。
 そんな親など八代の経験の中にはまったくないのに、その比喩はありふれたものとして心の中に浮かんだ。
「必要な科があるのが私立だったものですから」
「近いな」
「はい。ありがたいことです」
「三者面談はできそうか」
 ――逃げられない。
「どうしても必要ですか」
「特例がないわけじゃない。――でも、おまえは親御さんがいないわけじゃないからなあ」
「……まだそんなことを言うのかと言われても仕方がないとは思います。ですが、待っていただけませんか。……夏休みまでになんとかしますから」
 八代の家庭の複雑さを、竹下教諭は詳しくは知らない。当然だ。浮気の末の子どもで、実母から虐待された過去があり、もともと実母と結婚していた男の養子になっているなどと、誰が思うだろう。
 養子である事実はともかく、そこに至る経緯を、どうして知ることができるだろう。
 知っているのは弘だけだ。
 彼女でさえ、八代の明言をもって理解しているわけではない。きちんと説明したわけではないのだ。
 竹下教諭が、八代が提出した進路希望用紙を撫でる。
「やりたいことが見つかったか」
「いいえ」
 養父に会わなければならない。
 弘とのことだけではない。進学を選ぶのであればなおさら、顔を合わせないわけにはいかなかった。
 学費を借りなければならない。
 出してほしいとは思わなかった。
 大学の学費程度、養父の経済力からすればたいした出費ではない。
 ――そういう問題じゃない。
 いやなのだ。もうこれ以上頼りたくない。その思いの内には、今になってもなお逃げたいという理由がある。情けないと思う。
 でも、それだけではなかった。
 もう駄目なのだ。これ以上は。
 ――何もできなくなる。
 八代は泣きたい思いで、かすかに笑った。
「好きなものに触れるための手段に思い至っただけです」



「一緒に帰らせてほしいし一緒におやすみさせてもらいたいんだけど、いい?」
 断られることはないとわかっている。
 そう信じられるのはどれほどの奇跡だろう。
 弘が甘く微笑む。
 八代は泣きたくなった。
 涙も嘘も罪も(ゆる)してくれる、たったひとりのひと。



 弘が風呂に入っている。八代は決めかねていた。
 弘に言おうか、それとも、博と雅にも一気に言ってしまおうか。
 この先真実どうなるかはわかっていなくても、――八代はこれ以上ない秘密を抱えているけれど、ともあれ結婚の話があっての関係なのだ。話さなくてはいけないと思う。
 なかなか思い切りのつかない自分に苛立つ。
 家族の信頼関係を信じられないのが養父の無関心さに(たん)を発していることに、八代は気づけていなかった。
 まだ傷ついているのだ。
 八代ではなく、『幼かったあの日の八代』が傷ついている。
 泣いている幼い自分に気づいて、傷ついている自分を(いや)さなければ、八代は本当には大人になれない。大人は、子どもという足掛かりを得た先にあるものだからだ。
 子ども時代をやり直すという成長の仕方があることを知ったものの、幼い自分、それ自体を掴めずにいる。
 幼かった頃の記憶は曖昧で、暗く、痛い。
 恐怖と孤独ばかりが広がっている。
 闇に沈んで、指先さえ見えない。
「八代君、ひーちゃんと寝るの、そろそろ暑くなってきたんじゃない?」
 俯いていた顔を上げる。
 と、視界いっぱいにアイスの袋が飛び込んできた。雅ににこーっと笑われて、八代もかすかな笑みで応える。
「いただきます」
「どうぞ。コンビニ限定だって。いいよねコンビニ、おもしろい限定がいっぱいあって」
 クリームチーズアイスをぺりっと開けた。甘い香りが流れる。指に冷気が伝わった。
「みーさん限定もの好きだよね」
「うん。限定はいいよ」
 雅はパピコをぱかっと割ると、片方を博に差し出した。
「で、八代君。さっきの話」
「え? ――ああ、暑くないかという」
「そうそう。扇風機じゃ間に合わないよねえ」
 確かに、実はもう結構暑い。扇風機から送られてくる風がまだひんやりとしているからいいものの、これでは夏は越せないだろう。
「朝風呂使ってくれても全然かまわないけど、寝苦しさが解決するわけじゃないからね。根本的な解決にはならないから」
 言って、博はパピコの口を噛んだ。がむがむと(あご)を動かして、まだ少し硬いアイスを口の中に運ぶ。
「八代君の部屋にはエアコンある?」
 雅に問われ、八代は即答できなかった。
 いやな予感がする。
「あります」
 どの部屋も冷暖房完備だ。異常な室温を保てる程度には優秀なものが揃っている。
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