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「八代君さえよければ、ひーちゃんと寝てもいいよ」
 いやな予感は的中した。
「それは、……」
「事前連絡さえくれればよろしいけど、どう?」
「みーさん、八代君困らせちゃだめだよ」
 博でさえ反対しない。本当にどうなっているのだろうかこの家庭。
 もう八代の席と確定されてしまっている椅子で固まっていたら、正面に回ってきた雅がやさしい微笑を見せた。
「どうしても無理ならそれでもいいのよ」
 かたん、と扉の開閉する音がした。弘が風呂から上がったのだろう。
 もうあちこち開け放してしまっているから、風呂の扉を開け閉めする音も聞こえる。柘植家の風呂の扉は重い。静かに、静かにと心がけても結構な音が鳴る。
「誰にも入ってほしくない場所は物理的にも心理的にもなんらかのものがあるのは当然だから。……でも、努力をするなら――そうね。きみの場合縄張りに入られても大丈夫かどうかの見極めでかなりのとっかかりになるんじゃないかしら」
「努力、ですか」
「きみ警戒心強いから」
 あっさり言われた。
「それが悪いっていうんじゃないのよ。ただ、疲れるんじゃないかってね。私たちはともかく、弘の前でくらい無防備になれるようになったら楽なんじゃないかと思って」
「要するにお節介(せっかい)だよ。ごめんね八代君」
 結婚を前提にしているのだから、雅の言う『努力』は当たり前のものだった。
 受け入れられることを受け入れるように努力しなければつらいだけだが、同じくらい、弘を受け入れる努力もしないと今後がつらくなる。
 時間に比例して、どんどんつらくなっていく。
「……弘さんを傷つけるかもしれません」
「弘を見縊(みくび)らないで」
 厳しい声に跳ねつけられた。
「前にも言ったでしょう。あの子は泣き寝入りする子じゃないの」
「八代君」
 呼ばれて声の方向を見ると、弘と同じ微笑の博がいた。
「苦しいなら苦しいって言っていいんだよ。まだ消化できない、()かさないでくれって言っていい。したいことがあるなら遠慮なく言ってほしいし、してほしいことがあるなら頼んでくれていい」
 この家のひとたちは。
 ――簡単に俺を赦す。
「怖がらないで」
 博に微笑して言われて、八代はわずかに痛くなる。
 心の片隅、やわらかいところが、ちくりとやさしく痛くなった。
「『ここにいる方たちは、誰も僕を傷つけようとは思っていないので』」
 はじめて来たとき博が言ってくれた言葉をなぞると、雅が嬉しそうににっこりして、うんと首を縦に振った。
「大切なお話があるので、聴いていただけますか」
 まずはここからだ。
 受け入れてもらう努力をして、受け入れる努力をする。
 弘を寝室に招き入れるかどうかは、とりあえずこの話が終わってからのこととして考えればいい。
 慌てる必要はないのだ。
 博も雅も、弘も待ってくれる。
 甘ったれていいとは思わないけれど、だからといって疑う必要はない。
「お風呂いただきましたよー」
 藍染(あいぞめ)甚平(じんべい)姿の弘がリビングに戻ってきた。風呂上がりだから、頬がわずかに火照(ほて)っている。ほんのり赤らんでいて、いつも以上にやわらかそうに見えた。
「わたしもアイス」
「ちょっと待ったひーちゃん、八代君からの大切なお話」
「久我先輩の?」
 冷蔵庫に向かおうとしていた足を止めて、弘はくるりと方向転換した。八代の隣に腰かける。博も食べ終わったパピコをごみ箱に落として、いつもの席に座った。
 八代はアイスの棒を袋に戻す。気づいた弘が八代の手からそっと引き抜いて、博に渡した。ごみ箱までリレーされたアイスが、蓋がかぶさった(とう)の筒の中に消える。
 雅がにこりと笑った。
「どうぞ」
 どくん、と心臓が高く鳴る。
 ――大丈夫だ。
 落ち着け。
 不眠症の告白をしたときに比べれば、このくらいなんでもない。
「進路を決めたので、それをお話ししようと思います」
 隣の弘が少し驚いた。顔を見たわけではない。空気が伝わってきたのだ。
 そんなかすかな感情の推移を肌で感じ取れるほど、八代の身体は弘に近しくなっている。
 哀しくなるほどだ。
 届かないのに近いだなんて。
「県内の私立に決めました。造園関係に進みます。受験資格が学歴で変わってくるので、進学することにしました」
 わかっている。順序が逆だ。
 こんな話をまずしなければならないのは、『親』だ。養父だ。進学の希望を持ったからといって、彼に絶対的に反対されたら、
 ――反対されたら?
 家を飛び出すだろうか。
 ――決定なんかできてない。
 電話すらしていないのだ。
「造園」
 ほう、と雅が感心したような声を上げた。
「庭師さんになるの?」
 なりたいの? ではなく、なるの? と訊いてくるあたりが実に雅だった。
「はい。……花の――花が咲く庭が、欲しくて」
 成春は四年の月日を待ってくれるだろうか。
 弘が、学校に通う三年が長すぎる気がする、と言っていた。
 よくわかる。
 高校の三年と、卒業してからの三年は、違う。想像しているよりもずっと違うのだろう。弘はそれをわかっているから迷っているのだ。
 花が咲く庭が欲しい。
 なんとも抽象的な表現だと思う。
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