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 でも、そうとしか表せなかった。
 八代にとって、その言葉がこれ以上なく真実だったからだ。
 だから、このほかには言葉を持っていない。
「素敵」
 雅が嬉しそうに言って、ふふっと笑った。
 弘とよく似ている。
 ふふっ。
 楽しそうで、嬉しそうな。
 無邪気な声だ。
「花が咲く庭が欲しい、なんて。なんだか懐かしい夢を見てるみたい。きれいな言葉ね」
 深い息が、長く漏れた。唇が震えている。
「八代君のお花は幸せね。恋人に接するみたいに大切にしてもらえて」
「みーさーん、ヒロの立場がなくなっちゃう」
「あらごめん」
 くちもとに手をやって悪戯(いたずら)っぽく謝る。雅も博も笑っていた。
 そろりと弘の横顔を(うかが)ったら、視線に気づいた彼女は、
「やきもちなんて焼きませんよ。わたしにとってもお花は恋人のような存在ですから」
 とにっこりした。
「……()いてくれてもいいんだけどね」
 本気で言ったのに、弘はやはり、ふふっと笑うだけだった。



 かちりと扇風機のスイッチを入れる。ふぃぃんと勢いをつける音がした。すぐに収まって、羽の動きが安定する。
 風は冷たいとはいえなかったが、ぬるいといってしまうには温度が低かった。
 眼鏡を外して弘に渡す。彼女が眼鏡を()き、つるを(たた)んで置いてくれるまでの間に、八代はひっそりとコンタクトレンズを外す。
「暑くなってきたら、寂しいですけれど、お布団を並べますか?」
 ベッドの横に布団を敷くかと問うているのだ。
「寝苦しくなりそうだしね」
 こんな台詞を言う日が来るとは。
 眠れないのが常だったから、寝苦しいも何もあったものではなかったのだ。八代の場合、寝苦しいではなく、眠れないのが問題だった。
 弘が情けない顔で笑う。
「朝起きられないのは困ってしまいますものね」
 言いながら、ふたりはベッドに横になった。
 ベッドがわずかに傾ぐ。沈む。薄い上掛けのささやかな重みに、一日を終えられた安らぎの吐息が漏れる。
「先輩、ご進学なさるのですね……」
 躊躇(ためら)いがちな指が伸びてきた。頬に触れる寸前で止まり、離れていく。
「私立大学とのことですが、どちらに?」
 挙げた学校名はひとつだけだった。何校もは受けられない。
「近いのですね」
「幸いなことにね。引っ越さなくても通える距離だけど」
「先輩のご自宅からですと、一時間ほどでしょうか」
「大体それくらい。……なんだけどね、……」
 引っ越さないのであれば、――マンションに住み続けるのであれば、養父にかかりっきりになっている現状が保たれる。
 何もかもが一気に押し寄せてくる。まるで大きな波だ。
 飲み込まれてしまいそうになる。
「わたしも、選んで決める日がどんどん近づいてきます」
「柘植サンは――あと半年はゆっくりできるよ」
 弘は少し寂しげに笑った。
「半年なんて、きっとすぐです」
 扇風機が回る音。
 互いの体温で、少し暑い。
 八代はもうすぐ部活を引退する。
 薔薇から遠ざかるのだ。
 やがて温室に行かなくなるときがくる。
 硝子越しに降り注ぐ陽の光を浴びることがなくなり、美しいプリズムや繊細なスペクトルに親しむ日々が来なくなる。
 白い石畳(いしだたみ)と、緑と土のにおい、花の香りが想い出になる。
「先輩がなりたい庭師さんは、どのような資格ですか?」
「国家資格。受験するには実務年数もいる」
「大変な道ですね」
 技術の会得、知識の獲得だけでなく、純粋な時間もかかる。容易なものではなかった。試験の難易度の話ではない。
 焦ってはいけない気持ちと闘わなければならなかった。
「柘植サンだって、簡単なわけじゃない」
「……資格を取った方がいいと思われますか? 三年の時間をかけても」
 ――とても長い気がして……。
「努力で得られるものなら、迷うことはないと思うよ」
 弘に見つめられた。痛いくらいまっすぐ見つめてくる。いつものことなのにやっぱり息苦しい。
 目を逸らしてはいけない。
 言葉は自分自身に言い聞かせたものでもあった。
「幸いなことに、柘植サンは環境にも恵まれてる。――ひとに恵まれてるっていった方がいいのかな」
 弘はうっすらと微笑した。
 寂しさと、安堵のまじる不安を抱いた、(はかな)い微笑みだった。
「はい。どちらにも恵まれています。――わたしは、学べる環境が整っています」
 幸福なことだ。環境が満たされず、どうにもできずに諦めざるを得ないひとびともいるのだ。簡単に比較していいことだとは思わない。他人は他人で、自分は自分だ。どんなことを言ってもそれだけは変わらない。
 竹下教諭は、八代に「おまえみたいなのは珍しくもない」と言った。
 それを聞いたとき、八代はわずかに驚き、わずかに安心もしたけれど、――そのときですら思ったのだ。どれほど八代と似た境遇の生徒が過去にいたからといっても、参考にできるとは限らない。
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