back  |  next   
 自分の人生の真の決定権は自分だけのものだからだ。
「ゆっくり迷って、考えるといいよ。俺が(えら)そうに言えたことじゃないけどね。『慌てず』に、『後悔してもいいと思えるくらい考えて選ぶ』といい。……柘植サンは、それができるから」
 暗闇の中で弘が微笑み、そっと頷く。
 触れられたらいいのに。
 頬を包んで、長い(まつげ)を指先でなぞり、眠りの(ふち)にある甘い体温を感じたい。
 その程度のことすらできない自分の心が痛かった。
「柘植サン、俺の部屋で寝るのって抵抗ある?」
 弘は雅のように、ぱちりと(まばた)きをした。
「もうこれから暑くなるでしょ。扇風機じゃ間に合わないだろうから、エアコンのある俺の部屋で寝るのはどうかって雅さんが勧めてくれた」
「……よろしいのですか?」
 ぱちぱちと大きな瞳が(またた)く。
「父も母も、そうしてよいと?」
「八代君さえよければって言われた」
「……ご迷惑ではありませんか?」
 今まで考えることもしなかったけれど、もしかしたら、弘も努力中なのかもしれない。愛され、信頼の中で育った彼女に、八代は重すぎる。八代の負担にならないように受け入れる(すべ)を模索中なのかもしれなかった。
 雅が言っていた。縄張りに入られても大丈夫かどうかで、かなりのとっかかりになるのではないかと。
 せめて弘の前だけでも、無防備でいられたら。
 ――怖がらなくていい。
 傷つけたりなんかしない。
 すう、と息を吸った。
 精一杯で微笑む。
 自分の微笑は、やさしいものだろうか。
「柘植サンが迷惑なわけない。……柘植サンがいやじゃなかったら、一緒に寝て」
 まだ、「寝よう」とは言えない。一方的に抱いてもらっているだけだからだ。寝ようと誘えるのは、抱き合って眠れるようになってからの話だ。
 いつのことになるかはわからない。それでも弘が嬉しそうに笑ってくれるから、八代はたまらなくなる。
 ただ黙ってひたすら愛されるのは、容易なことではない。
 余計に回ってしまう頭がある。過去の不安が引きずり出され、与えられた恐怖や与えてきた暴力が、愛される自分を信じさせてくれない。
 星屑(ほしくず)を宿す弘の指先が、八代の頬にやさしく触れる。
「おやすみなさい、久我先輩。また明日」
 額にキスを受け、左瞼にもキスをもらった。
 ――ああ。
 唐突だった。
 突然、八代は幼い頃の自分を捕まえた。
 細い腕を引き寄せて、顔を覗き込む。肌は蒼白くぼろぼろで、()せていた。左右色の異なる瞳が揺れている。泣きそうになっているのだ。
 怖くて、痛くて、心細くて、空腹で、寒い。
 八代はずっと寂しかった。
 哀しくて、つらかった。
 幼い心はいつも空虚で、孤独だった。
 ――満たされるまで。
 空虚が愛情で満たされるまで、八代はひととき休む。時間は残酷だけれどやさしい。そのやさしさを信じようと思う。
 時の流れのやさしさは、弘の愛情とともにあるからだ。
 陰に(ひそ)んで傷を癒そうとする八代を、彼女は急き立てない。無理矢理傷に触れようとすることもない。治させようともしない。
 ただ黙って、あたたかい沈黙で包んでくれている。
 自分と向き合うのは勇気がいるのだ。真っ向から向き合うほど必ず傷つくから、新しく傷ついても生きていける身体がいる。
 新しく得る傷は疚しい過去ではなく、決意の傷痕(きずあと)だ。変わっていくことを肯定する信頼と覚悟の(あかし)だ。
 幼い自分を抱きしめるのにはまだ時間が必要だけれど、触れられるようにはなった。瞳を見られるようになった。
 幼かったあの日の自分は、いつか笑ってくれるだろうか。
「おやすみ、柘植サン。また明日」
 目を閉じる。
 扇風機が回る音。
 少し暑い。
 かすかに香る石鹸と、弘のやわらかい身体と。
 八代は守られていた。
 静かに、確かに守られていた。
 back  |  next



 index