back  |  next  

フラクタル






 頭から引っかぶったタオルで髪を()く。身体がしっとりと熱く、知らず深い息をついた。と、耳の片隅で、ふふ、と笑う声が聞こえた。
「なに?」
 ――本当に、何がそれほど違うのだろう。
 意識しているわけでもないのに、(ひろむ)に対するとき、八代(やしろ)の言葉尻は自然と穏やかになる。疑問符という、原稿用紙にしてたった一マスが、当然のように満たされる。ふたりきりのときは特に顕著だ。
 タオルはまだかぶったままで弘の顔を追うと、目が合った彼女が嬉しそうに笑った。
「先輩はお風呂上がりになって、やっと、疲れたなあってお顔をなさいますね」
「そう?」
 風呂上がりはともかく、風呂上がりかつ油断している八代を見たことのある人間はそういない。誰もいないとまではいわないが、八代の感覚では弘の前だけだ。
「朝も、昼間のお仕事中でも疲労はお顔にも仕草にもほとんど出ていませんよ。ですが、お風呂上がりで髪を拭いていらっしゃる、ちょうど今ですね。ここになってやっと、疲れたなあってお顔をなさるのです」
「知らなかった」
「うれしく思います」
 (ほほ)を染めた弘が唐突に言った。いまいち会話に繋がりを見出せないでいると、弘は少し首を傾げ、なんだか情けないような顔をする。
「ぴりぴりしていたら、きっとそのようにはならないでしょうから……ゆったりできているのだと、……思ってもよろしいですか。間違っていませんか?」
「……間違ってないよ」
 シャツの(えり)もとが緩んでいるのも、深く吐息するのも。弘(いわ)くの疲れた顔をするのも、緊張していないからだ。警戒していない。安心していいのだと、意識より身体がわかっている。だから無防備がそのまま表に出るのだ。
 八代の肯定を聞いて、弘が安堵(あんど)の表情を浮かべる。鳶色(とびいろ)の瞳がやわく(またた)いて微笑む。
 胸が苦しい。
 弘のやさしい甘やかな表情は、いつも八代の深部に直接触れる。やわらかく、あたたかく、だから痛い。
「そういう柘植(つげ)サンは、いつも元気だね」
 胸苦しさを誤魔化(ごまか)したくて言うと、弘はきょとんとした。疲れた顔の彼女を見た記憶がないと思ったのは本当だったから、そんな顔をされると、八代もきょとんとしてしまう。
「俺が気づいてないだけ?」
 大いにあり得る。
「いいえ。そのようなことはないと思います。疲れないわけではありませんが、何故かわたしは小さな頃からいつも元気だねと」
「つまり俺が気づいてない」
「そういう意味で言ったのではありません」
 梅雨真っ只中、毎日蒸し暑い。ちょうど中間テストが終わった頃だっただろうか、弘がごとんとベッドから転げ落ちたのを見て、もうこのベッドで一緒に寝るのは厳しくなってくるな、と思ったのだった。ふたりが起きてまず何をするかといったら、朝風呂なのだ。
 弘を家に招き入れるのには、驚くほど抵抗がなかった。
 あまりにも雨がひどかった日、八代は偏頭痛に耐えきれずに学校を休んだ。ベッドから起き上がれなかったのだ。ほとんど這うようにして電話に辿(たど)り着き、震える手で学校に連絡した。
 ものすごく心配された。
 次の日学校に行ったら、担任に
 ――ああ、生きてるな。安心した。昨日死にそうな声だったから。今日は大丈夫なのか。
 と言われた。
 ――そんなにひどかったのか。
 夕方頃にはなんとか上向きになってきていたから、朝の自分がそこまで死にかけているとは思わなかった。
 そのときに弘がやって来たのだ。三度目の訪問だった。
 うとうととふたりして五時まで昼寝し、弘のつくってくれた卵雑炊を食べて別れた。
 一緒に寝るようになったのはそのすぐあとだ。昼寝したことで、八代の中でハードルがぐっと下がった。
「疲れるといっても、身体のお話ですから。心は元気なので、あまり顔に出ないのだと思います」
「それはそれですごいね」
 大抵の人間は疲れれば顔に出る。
「先輩がわたしに無頓着(むとんちゃく)だなんて思いませんからね」
 必死に付け加えられた一言が八代を思い遣っていた。弘は八代が言葉足らずであることも、うまい言葉を見つけるのが苦手なことも知っている。
 八代の言葉はいつもどこか冷淡で、ひとと距離を置いてあり、ある意味で乱暴だ。口調は静かだけれど、選択される語句にやさしさはない。
「柘植サンを疑ったりなんかしないよ。無駄な思考もいいところだから」
 しかも、一言多い。
 せめて、弘に対してだけでも、もっとやさしくできればいいのに。
 具体的にどうすればいいのかがわからなかった。



 養父に会わなければいけない。
 この文章を頭の中で繰り返すのは何度目だろう。もう数えきれないほど、ぐるぐると同じことを考えている。
 進路のことも話さなければならないし、弘のことも話さなければならない。
 ――話さなければならない、か。
 他人行儀な物言いだ。『話したい』のではなく、あくまでも『話さなければならない』と思っている。
 養父はどう考えているのだろう。
 最低でも高校は卒業しろと言われたから、八代はおとなしく進学した。逆らう気持ちもなかったが、感謝があったわけでもない。八代にはなんの意志も宿っていなかった。
 そうしろと言われたから、そのようにしただけ。
 ただの時間の浪費だ。
 弘に出逢えたから、彼女が見つけだしてくれたから、八代の高校生活は無駄なものにならずに済んでいる。
「八代君」
 思考が途切れた。
 (みやび)ににこりと笑いかけられる。
「結構なお手前で」
 言われて、八代は少し笑った。雅の笑顔が、八代が()れた茶を飲んでいるときの弘に重なったからだ。
「久しぶりでしたので、――安心しました」
「いやぁおいしいよ。お菓子、もっと奮発(ふんぱつ)すればよかった。つり合いが取れてないね」
 社交辞令だとしても嬉しい。
 素直に嬉しいと思うのは、相手が雅だからだ。
 柘植家のひとだからだ。
 もしも養父に言われたら、と考えてみる。
 八代は何も感じないだろう。
 口先で「恐縮です」と言うだけだ。
 back  |  next



index