back  |  next  
「部活引退して、寂しい?」
 障子(しょうじ)を開けてある庭先を見る。けして大きくはないが、桜と梅が植わっていた。毎年きれいに咲くという。枝も過不足なかった。
 ぱらぱらと雨が降っていた。
 湿った大気がまだ新しい(たたみ)をしっとりさせている。空気と水を含んだ弾力だ。かすかに青いにおいがする。
「はい。……未だに、たまに顔を出しています」
「文化部なんだからもう少しやっててもいいんじゃないの? 品評会って花まつりだよね。高校生の部」
 花まつりと名づけられている品評会は、毎年十月半ばに文化会館で開催される。
 八代は目を伏せた。
「僕は少し――事情がありますので。辞めておかないと、逃げ場にしそうなんです」
 最初に逃げ場にしたように。
 高校に入学してすぐ八代は疲弊(ひへい)した。何もかも異質だったからだ。何も得られなかったし、得ようとしていなかった。自分は決定的に(はじ)かれていると思っていたから、上澄みで折り合うことしかできず、無理しているぶんの疲労が積み重なっていく。
 温室はただの逃げ場だったのだ。
 逃げたくて、それだけの理由で園芸部に入部した。
 植物の静けさに触れて、八代は温室の中でだけは穏やかでいられるようになった。
 今は、居場所は温室だけとはいわない。
 でも、逃げ込みそうな自分はいる。
 だから無理矢理距離を取ることにした。自分自身で、目の前から取り上げた。仕事はもうしていない。茶も淹れない。時折顔を出して、仕事をしている弘の手もとを見る。草取りをしている寿生(としき)に声をかける。それだけだ。
「その事情、弘は知ってる?」
「……少しだけでしたら。うまく説明できずにいるんです。説明したくないわけではないのですが、どう話せばいいのかがわからなくて」
 今さら隠したいとは思わない。
 つらい事情だし、複雑な事情だけれど、話そうという気はある。けれど、つらく、複雑だからこそ、言葉を探しあぐねていた。
「私の経験則からいくと、順序なんてこの際無視で、とにかく思いつく限り全部ばーっと言っちゃうのが早いね。全部出して並べてから整理するの」
 ぱらぱらぱら。
 雨が降る。
 通学路の紫陽花(あじさい)は満開だ。青紫色がいっぱいに(にじ)んでいる。
「八代君の性格では、それは難しいってことでしょうね」
「雅さんは、進路の相談をどのようにされたんですか? お聞きしてもいいでしょうか」
 雅はぱちりと瞬いた。
「進路の相談っていってもね。高校卒業の先ってことだよね?」
「はい」
「じゃあ申し訳ないけど何も言えないなあ。私高校は自主退学したから。しかも一年ももってないの。二学期までももたなかった」
 すぐに反応できなかった。
 雅がくすっと笑う。
「意外?」
 頷いていいものかどうか迷ったが、隠してどうなるものでもない。八代は肯定した。
「はい」
「んー八代君は意外派か。意外派と納得派に極端に分かれるのよね。でも受験にかかった費用だとかそれまでの学費は全部返済したよ。私の名誉のために言っとくけど」
 養父に会わなければいけない。
 現実が迫ってくる。
「返済……したんですか」
「うんした。だって高校は義務教育じゃないもの。自分の意思で行くって言って進ませてもらっといて、自分の都合でやめるって言ったんだから。しかもその都合ってのも私の場合性格的に学校と不一致ってやつだったからね。学校や私自身が悪かったんじゃなくて、単に『箱』との相性が最悪だったのよ。入学してみてよくわかった」
 ――恥ずかしくなる。
「僕は惰性(だせい)で通ってきました」
「今も?」
 ――今は?
「……いいえ。違います」
 変化は弘に逢ってからだ。逃げ場でしかなかった温室が、光射す庭になったのは。
「だったら、八代君が気づいてないだけで、これまでも惰性とは違ったんじゃないかなあ。辞めようとか思ってるのになんとなく先延ばしにしてるんなら惰性だけど、そうじゃないんなら惰性とはいわないと思うね。それに八代君には好きなものがあるんでしょう」
 あの庭ではたくさんの花が咲く。硝子(がらす)張りの温室は、ひとつの世界だった。
 ――神様みたいな女の子がいる。
 微笑んで、一輪一輪に美しい魔法をかける、細い指先。
「あの温室、一年間ひとりで維持してきたんでしょう。そりゃ用務員さんとかいるけど。でもあの学校ほんっとに植物に関しては園芸部に丸投げだもんね」
「ご存じなんですか」
「きっちり卒業してたらきみの先輩になってた」
 ぎゅっと真面目な顔になった。それがかえって冗談みたいで、笑みが()れる。
「話を戻してごめんね。いやならそう言って。()くのやめるから。――『事情』は深い?」
「……はい」
 八代の傷痕(きずあと)だ。浅いはずがない。
「僕は嘘ばかりついてきたので……本当のことを言うのが難しいんです。どう言えばいいのかがわかりません。弘さんにも、雅さんや(ひろし)さんにもご説明したいと思っているのに」
 私たちは二の次でいいのよう、と言って雅は笑った。
「八代君。ひとを救うための嘘だってあるわ。方便っていうの。知らない?」
「僕は……」
 言い淀んだ。雅の眼差しがあまりにも弘に似ていたからだ。何もかもを見透かしてしまう、誤魔化しの利かない透徹(とうてつ)の。
 雅の見透かし方と、弘の見透かし方は種類が異なる。それは明白だった。けれど具体的になんなのか、どういったものなのかを説明することはできない。言語野が働いてくれないのだ。
 もしかしたら、女の勘と一太刀にしてしまっていいものなのかもしれなかった。
 仮にそうなら、雅と弘が異なるのは当然だ。彼女たちは育った環境が違い、異なる人物たちに囲まれ、――そして、経験の差がある。
「……嘘、ばかりを、言ってきました」
 同じ台詞(せりふ)を、弘にも言ったことがある。
 柘植家のひとびとはどうしてこうも同じことを言い、同じことを言わせるのだろう。
 少し揺らいだ八代の声に気づかないふりをして、雅はきれいに微笑んだ。ほんの少し(べに)を差した唇がたおやかに緩む。
「それが八代君の生きる(すべ)だったのね」
「――」
 生きる術?
 何が?
 ――嘘が?
「違った?」
 表情は崩さないままに、小首を傾げて訊いてくる。――質問をするときに首を少し傾げる癖が、同じだ。弘と。
「いえ……そういう解釈をされたのがはじめてで……どうなのか、」
 back  |  next



 index