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「今は? ――嘘をつくのは、つらい?」
 小雨の音が鮮やかで、石に()している(こけ)のしっとりと濡れた深い緑が静かで、泣きたくなる。
「……弘さんと、話しているときに。時々」
 雅がくすりと笑った。
「あの子と一緒にいるのは、いつもじゃなくても……不意に疲れることがあるでしょうね。傷ついたりもするかもしれない。好きならなおのこと」
 雅が茶碗を置いた。音は畳に吸い込まれた。
 和室は薄暗い。
「弘は博さんにすごく似てるのよ。こころがきれいでやたらと強いの」
 雅が泣きそうな顔をする。苦しいみたいな顔で笑った。
「だから」
 ――柘植サンに会いたい。
「好きになったら傷つくわ。あっちもこっちもね。ついでに、こっちとしては、怖くなるときもある」
 でも、と続けて、雅は今度は晴れ晴れと笑った。
「しょうがないわよね。好きになっちゃったんだもの。好きだなあっていう気持ちは自分のものでも、理性でどうこうできるものじゃないから。どうしようもないのよ」
「雅さんも傷つきましたか」
 無礼だと思ったが、問わずにいられなかった。
 雅は悪戯(いたずら)っ子のような笑顔で答えてくれた。
「ものすごく。泣き叫んだわ」



 八代はけして健康的な人間ではないけれど、朝は好きだった。特に、()てつくような冬の朝が。
 毛布のぬくもりすら知らなかった頃だって、朝の冷たさは好きだった。
 耳の痛くなるような冷澄(れいちょう)さ、月光のように()えた大気。耳の奥に自身の拍動が響く。鳥の声も聞こえない。ひとも自然も、建物もまだ目覚めていないあの時間。夜行性の生き物は休みはじめ、昼行性の生き物は目覚めの息吹に触れようとしている。誰のものでもない時間だ。
 誰にも見られていない時間だから、誰にも害される時間ではないから、曖昧(あいまい)な陰影をぼんやりと眺めることができる。
 まだ明けきらない、季節によっては星が瞬いているような時間に起きるのを苦に思わないのは、きっと早朝の張りつめた静謐(せいひつ)が好きだからなのだ。
 模擬試験はたいして難しくもない問題ばかりだった。自己採点でも、八代の感覚でいうところの『それなり』だった。
 哀しかった。
 こういうことは得意なのだ。どこにでも行ける成績を出せる。八代は、竹下(たけした)教諭が教師として言ってはいけないと思っている言葉を言わせてしまう程度には優秀だった。
 いつもそうだった。
 これまでも困ったことはない。
 八代はなんでもそつなくこなせる。
 だから熱中というものに縁がなかった。どれもこれもなんとなく過ぎていく。一生懸命やらなくてもできるから、夢中にもなれなかった。幼い頃の習い事のときの『懸命』は、精神状態だけのことだったのだ。懸命にやったから上達するのが早かったというのは事実ではあるけれど、能力的には常に余裕があった。
 無事に進学できたとしたら、どうだろう。
 自分は脇目もふらずに情熱を(そそ)ぐだろうか。
 ――まだわからない。
 わかっているのは、花が咲く庭が欲しいということだけだ。
 養父に会わなければいけない。
 話を聴いてもらえるだろうか。そもそも、
 ――どう話せばいい?
 花が咲く庭が欲しいとでも言うのか。だから進学したいと?
 ――馬鹿げてる。
 聞き入れてもらえるはずがない。
 そう思っても、八代はその言葉しか持っていない。
 首を巡らせた。
 弘が眠っている。
 時間は、たぶん五時十分前くらいだろう。八代の体内時計は正確だ。
 時計は掛けていなかった。目覚ましが必要になったこともないから、もちろん目覚まし時計もない。弘は毎日例の目覚ましを朝の合図にしていたから、八代は
 ――時計持ってきてくれていいよ。
 と言った。弘は微笑んで、時計は保険ですから大丈夫です、と答えた。
 実際、彼女が寝坊したことはない。毎朝きっかり六時に起きてくる。
 八代の起床時刻は五時だ。だから朝食と弁当をつくることにした。
 弘がいないときに試験的につくってみたら、当然ながら彼女ほどきちんとしたものは用意できなかった。だから、ひとりの夜にこつこつ試行錯誤を重ねて、ついでに彼女が腹ペコにならない量も少しずつ把握していった。やはり、ただ見ているだけのときと、実際につくるときでは、量は違うように感じる。
 はじめて弁当をつくって渡したとき、あろうことか弘は泣いた。ありがとうございます、うれしい、と言って弁当箱を大切そうに胸に抱いた。
 八代はものすごく照れた。
 感情がすぐにそのまま出る性質(たち)でなくてよかったと心底思った。
 弘が寝返りを打つ。八代にころりと背中を向けた。
「……小さい背中……」
 ベッドが広いから、身体と身体に間がある。のびのび寝られていいはずなのに、弘のベッドでぎゅうぎゅうになって寝ていた頃が少し恋しい。
 寒くなったら、また戻るのだろうか。
 枕に顔を押しつけた。
 戻っていいはずがない。
 寒くなる頃、八代を取り巻くものは変わっていなければおかしいのだ。もとのように戻るということは、すなわち八代がまったく進めなかったという意味になる。
 進路のことだけではない。弘のことだって話さなければいけない。いつまでもこの状態でいさせてくれるほど世界は甘くないのだ。八代の内側にある、やっとひびが入ったばかりの世界ですら甘くなかった。
 ひびから射し込んでくる光が(まぶ)しいのだ。外をかたちづくる新しい世界が透けて見える。
 ひび割れた隙間から、やさしい青い空が見える。
 養父に会わなければいけない。
 養父に会わなければいけない。
 目の前がちかちかする。
 ばっと起き上がった。くちもとを手で押さえ、布団を跳ねのけてトイレに駆け込む。
 ()せながら吐いた。何度も咳き込む。咳をするたびに新たな嘔吐(おうと)(かん)が高まった。もう明け方だから、腹の中にはほとんど何も残っていない。すぐに八代の胃の中はからっぽになった。
 胃液もすべて吐いた。それでも止まらない。震える背中が痛かった。もう暑い時期なのに、部屋は空調が行き届いていて快適な室温なのに、寒い。
 ばたばたと涙が落ちた。
 苦しい。
 弘が眠りの深いタイプでよかった。起こしたくなかったし、見られたくなかった。
 ――苦しい。


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