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 朝起きたら、弘に顔を(のぞ)き込まれた。顔色が悪かったのだろう。
 八代は弁当を差し出して、「お先にいってらっしゃい」と言い、彼女の追求から逃げた。弘に心配されるのが重かったのだ。
 安心するのに不安になる。まだ完全に受け入れることができないから、そのぶん彼女は八代を傷つけた。
 八代は、弘の完璧さが怖いのだ。彼女は完全で、――完全だから、完結してしまっている。八代が入り込む余地はない。それが寂しい。
 学校を休んだ梅雨のあの日、八代は自然に弘に触れた。どうしてそんなことができたのだろう。八代はまだ数歩も前進できていないのに、あのときは当然のように彼女の頬を()でることができた。(ひざ)に抱き上げることさえできた。
 雨に(まぎ)れたのだろうか。
 紅茶に落とされた角砂糖のように、恐怖が緩やかに溶けたのだろうか。
 ――あの日だけ。
 温室の扉から、小柄な影が出ていく。購買にパンを買いにいったのだろう。八代はいつもより弁当の量をかなり減らしてつくった。昼食用も早弁用も。ばれないように盛りつけで誤魔化した。昼が来る前に食べきってしまう量に調節したのだ。そうすれば、弘は購買に出かけてくれる。
 温室で、四人と話せるかもしれない。
「うっわ」
「ひどい」
「どうした」
「過去最低だな」
 顔を見せた瞬間、伊織(いおり)綾野(あやの)鷹羽(たかは)次子(つぎこ)の順で散々に言われた。
 部活を引退してからというもの、昼に温室に来るのもやめてしまった。今回がはじめてだ。弘が出ていったから間違いはないと思ったものの、(そろ)っていたことにほっとする。
「そんなにひどい?」
「ひどい」
 予想に反して、綾野がいちばんに口を開いた。
「弘と一緒でも、自分の部屋だと眠れないの?」
「眠れるよ。……今日はちょっと理由(わけ)ありでね」
 四人には、柘植夫妻に事前に連絡さえすれば、八代の部屋で寝る許可が下りたと知らせてある。黙っておくのは不誠実だと思ったのだ。特に、伊織とはそういった内容を話したことがあったから。
 あのとき、八代は弘を自身の縄張りに入れることに怯えていた。まだ駄目だと思っていたし、無理だとも思っていた。
 この心の変化はよいものだろうか。
 四人は、八代よりもはるかに弘を知っていて、相談相手になり得る。
 弘に、少しでも素直な、八代から受けるストレスを聴いてもらえる人物が欲しかった。八代の我儘(わがまま)だ。それでもありがたいことに、四人は無言で了承してくれている。弘は両親に全幅の信頼を寄せているが、親だからこそ言えないこともあるだろう。
 八代が鷹羽や伊織に頼っているように、弘にも頼れる存在は必要だ。
 四人だってふたりを心配してくれているのだから、なおさら黙ってはおけない。
「そういえば、進路希望用紙出したよ」
 なるべく、たいしたことでないように聞こえるよう心がけて言った。
「おめでとう……でいいの? こういう場合」
 図書室での遣り取りを思い出したのだろう、今度も綾野が真っ先に反応する。
 彼女にとって、八代の将来は特別な一面を持っている。弘と話してくれたのか、と一抹の安堵を覚えているのかもしれない。
 見直してもらえたとまでは思わないが、綾野の表情は八代を(さげす)んではいなかった。
「おめでとうでいいんじゃない? かなり悩んでたんでしょ? 綾野の口ぶりから察すると」
 伊織はけろりとしている。
「じゃあ、おめでとう」
「おめでとう、八代」
「やっしー先輩、おめでとー」
「やめてよ恥ずかしい。紙一枚が埋まっただけなのに」
 その紙一枚を埋めるのに、八代は――たぶんこれまでの人生で五指に入るほど悩んだ。
 遣り取りを眺めていた次子が笑った。
「じゃああたしは(ひか)えるよ。あんたが合格したら言う。いや、就職か?」
「んん、進学。県内」
「進路のことがストレスになってるの?」
 伊織に訊かれて、八代はわずかに迷った。
「それとは少し違うかな。……名瀬(なせ)サン、ご両親には進路のこと、どうやって話すの」
 両親との仲は最悪だと言っていた。八代の両親との関係は、わかりやすい『最悪』とは異なるが、話し合いにくいという点では通じるものがある。
喧嘩(けんか)すればいいだけ」
 答えになっていない。
「話したら即開戦だから。学費全額返済するって言うだけ。補足は入れる予定」
有馬(ありま)サンは?」
 次子のことを訊くのははじめてだ。
「あたしはまだ迷ってる。周りは進学(すす)めてくれるが、うちは下にまだふたりいるしな。やってみたいことがないわけじゃないが、進学しなきゃできないことでもない。だから余計にってのもある。親より妹ふたりに説明するのが大変そうだ」
 家庭は色々だ。痛感した。
「話すのは早い方がいいよ」
 鷹羽が言う。
「おまえはいい加減時間もぎりぎりだ」
 三者面談をできていないことに気づいているのだろう。
「追い詰められると、(あせ)ってろくに話せないなんていうことになりかねないからね。話を聴く相手側だって時間が欲しいと思うかもしれないし」
「うん……」
 ――喧嘩。
 八代と養父は、喧嘩できる仲ではない。
 未明の激しい嘔吐が記憶を焼いた。
 本当は理解している。哀しいことに、八代は現状をきちんと把握していた。
 偏頭痛で起き上がれない日があろうが、喧嘩できる仲ではなかろうが、とにかく会わなければならないのだ。それだけは絶対だった。確かなことだった。
 逃避できる選択ではなかった。
「喧嘩か」
 ――ここに来て不戦敗を選ぶのか?
 それでは駄目だ。これまでと何も変わらない。
 改善したいと思うなら、努力しなければ物事は悪くなっていく一方なのだ。
 ふと思い出した。
 八代は、養父に暴力を振るわれたことがない。
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