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「やっしー先輩」
「なに」
 視線を合わせたら、大きな猫目が笑った。
「やりたいこととか好きなことがあると、人間わりと死なないよ」
 ――八代君には好きなものがあるんでしょう。
 ――好きなものに触れるための手段に思い至っただけです。
 諦めたくない。花が咲く庭。
「当たって砕けるのってみっともない?」
 四人はまったく同じタイミングで、同じことを言った。
「超かっこいい」
「柘植サンは」
「惚れ直してくれるよ」
 伊織がウインクする。
「親との喧嘩ってどうやるの」
 珍しく綾野が微笑んだ。日本人形の無機質さが消えて、美しい少女になる。
「自分の何もかもを全部ぶつけるのよ」



 最近、夢を見る。
 あの春の日。
 よく晴れていた。風はまだ少し冷たかったけれど、大気はあたたかかった。温室の扉は開かれていて、硝子越しに降り注ぐ()の光が揺らめいて、ひどくきれいで。白い(いし)(だたみ)が輝くように眩しい日だった。
 無数の(つぼみ)が開花を待っていた。
 強い風が吹き過ぎて、八代の髪を散らし、弘の髪をさらっていった。
 (つる)薔薇(ばら)の意匠の円卓。その上に置かれた、赤い小箱。やさしい、懐かしい夢の中のオルゴールのような。そんな夢を見たことなど一度もないのに、何故かそう思った。
 その中に入っていた、白詰草(しろつめくさ)の小さな指輪。
 ――結婚してください。



 受話器に手を置いて、何度も深呼吸をする。
 今日は朝から嘔吐した。それも何度も。食べたものを全部戻してしまったから、どうせ戻すのなら食べるのはもったいないと割り切って昼食は抜いた。
 八代の身体は容赦してくれなかった。腹の中には何も入っていないのに、十分、十五分置きにえずき、そのたびにトイレでからっぽの嘔吐を繰り返した。
「もう吐くもの残ってない」
 (のど)が焼けて痛い。吐くたびに口を(すす)いだけれど、苦みが染みついていた。
 荒くなってきた呼吸を落ち着ける。弘を殴ったときのことを思い出した。
 八代は結局、ごめんの一言も言えなかった。
 この後悔に比べれば。あのときの弘の透徹の瞳、嚆矢(こうし)の眼差しに射抜かれた畏れに比べれば。
 雅と博に不眠症を告白したときに比べれば。
 次々取り上げて比較してみれば、電話なんて容易(たやす)いことに思える。傷つけられる心の準備ができているからだ。
 ――あのひとはきっと、俺がどこで何をやってようが、興味なんてない。
 ずっとそれでよかったのに、今になって向き合わなければならないと切実に思うのは、いつまでも子どもではいられないとわかってしまったからだった。
 もうすぐ梅雨が明ける。
 受話器を持ち上げた。
 電話をかけたことなどなかったのに、番号はしっかりと覚えていた。
 出てくれるだろうか。多忙なひとだ。時間は選んだつもりだが、タイムスケジュールを把握していないから、通じないかもしれない。
 誰かが伝言を預かってくれるだろう。
 でもそれでは駄目なのだ。八代が自分からかけた電話で、直接彼と話さなければ意味を持たない。折り返しご連絡いたします、では駄目なのだ。
 呼び出し音が途切れた。
 強い嘔吐感が湧く。くちもとを押さえ、呼吸を飲み込んだ。
「――あ、……」
 かすかな声はなんの意味も持っていなかった。
 言葉が出てこない。
 紙にでも書いておけばよかったのか。原稿としてまとめておけば、少しは違っただろうか。
 それも今では遅い後悔だった。
 何か言わなければという焦燥(しょうそう)が増していく。けれど、その対岸には、言うことは決まっているのだからという冷静な自分もいた。
「……八代」
「はい」
 機械越しに聞こえた声は、なんだか知らない人物のもののように思えた。
 こんな声だっただろうか。もっと違う声だった気がする。そういえば、最後に会話をしたのはいつだっただろう。
「…………元気に、しているか」
 気まずそうな調子だった。言葉尻が頼りない。落ち着いた低い声は穏やかだったが、戸惑っているのが手に取るようにわかった。
「……はい」
 八代も気まずい。まさか、養父がこんな反応をするなんて思わなかったのだ。もっと、鬱陶(うっとう)しがられるとか、いやがられるとか、さっさと用件を言って早く終わらせろとか、そういうものばかりを想像していた。だから八代も戸惑ってしまう。
 元気にしているか、なんて。
 まるで、人間に対する言葉ではないか。
「少し待ってくれ」
「……はい」
 茫洋(ぼうよう)と答えると、声が遠くなった。受話器の向こうから、小さな咳払いが何度か聞こえる。なんだろうと思いはじめた頃、声が戻ってきた。
「ああ、すまない。その、……何か、困ったことがあるのか」
 何をどう言ったらいいのかわからないのだろう。はっきりとした用件がある八代でさえこの体たらくなのだ。突然電話を受けた養父が困惑するのは当然だった。
「いえ、困ったことがあるわけでは……なくて、……不自由なく暮らせています」
 何を言っているのだろう。情けない。
「そうか。よかった」
「……」
「……」
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