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 続かない。
 これなら、いっそ家まで行った方がよかったかもしれない。
「……突然、電話して、すみません」
 意図せず漏れ出たのはそんな言葉だった。
 養父が驚いたのが気配でわかった。機械越しでもわかるものなんだな、と妙な感心を抱く。
「いや、そんなことは思っていない。元気で、困ったこともないのだろう」
「はい」
「それならいいんだ」
「……ありがとう……ございます……」
 こんなひとだっただろうか。
 自分の記憶にある養父と、電話の声の持ち主が一致しない。もしかしたら、自分が養父だと記憶しているのは別人なのではないかとさえ思ってしまう。ほかの誰かと勘違いして記憶しているのだろうか。
「それで、――ああ、時間は気にしないでくれ。大丈夫だ。話せる。話す時間はある」
「はい」
 そこではじめて肩の力が抜けた。養父があまりにも必死に言うものだから、なんだかおかしくなってしまったのだ。お互いに緊張して、言葉が見つからずに黙ってしまって。交際をはじめたばかりの恋人同士のようだと、経験したことがあるわけでもないのに思ってしまった。それが余計におかしくて、深呼吸のはじまりみたいな忍びやかな笑みが(こぼ)れた。
「大切な、――その、突然のこと、ですし、何を馬鹿なと思われると思いますが」
「大丈夫だ。先回りしなくても、きちんと聴く。大丈夫だ」
 本当だろうか。
 繰り返しているあたり、自分に言い聞かせて冷静でいようと努めているようにしか思えない。
「そうですか」
「大丈夫だ」
 焦っている。何を言われるのかと戦々恐々なのだろう。
 何も不思議なことはない、養父も人間なのだ。
「進路のことでお話があります」
「……ああ。そうだな。三年生だ」
 低い声に拒絶はなかった。学年を覚えてくれていたのか。それすら意外だった。
「それから」
 手が震える。負けたくなくて(こぶし)を握った。
「結婚を考えているひとがいます」
「…………」
 なんと言えばいいのか、突然わからなくなった。だからこれ以上なく単純なものになったが、そのぶんわかりやすくなったとは思う。むしろ、ほかにどう言えばいいのかがわからない。何せ、八代の頭の中も今はほとんど白いのだ。
「…………そうか」
「……はい」
「そうか……」
 会話が前進しない。
 でも、とりあえず最低限のふたつは伝えた。
 大きな溜息(ためいき)が聞こえた。当然だと思う。だが、続いた言葉は完全に予想外だった。
「もうそんな(とし)になったんだなあ」
「……その台詞を使うのは早すぎると思いますよ」
 かすかな笑い声が聞こえた。緊張が解けてきたのだろうか。
「いや、そうか。そうだな。まだ成人もしていない」
「はい」
 一笑に()されるだろうか。無理もないことだと思うから、それについては緊張することもない。
 だが、ここでもやはり養父は八代の予想外のことを言った。
「まだ二十年も生きていないのに、生涯の相手と出逢ったのか」
「…………は、…………あ…………?」
「今日の電話は、進路と結婚のことか」
「……はい」
 ――何を馬鹿なことを言っているんだ。
 そう言われると思っていた。
 ――成人もしていない身で、何を。自分でできることなど何もない身で、何か勘違いをしているのではないか。自分の立場を、私の立場を考えろ。身体だけ大きくなって、口ばかり達者になって、一人前になったつもりか。うまくやっていけると思っているのか。世の中は甘くないんだぞ。結婚は夢見心地で続けていけるものではない。相手が誰か、そんな興味などない。やはり好き勝手にさせておくべきではなかった。すぐにでも帰ってこい。迎えを寄越す。荷物をまとめて待っていなさい。
 身体が痛むほどの、あの葛藤(かっとう)と緊張はなんだったのだろう。
「相手の方のご両親は?」
「ご挨拶(あいさつ)しました、――とは、言い難い中途半端な状態です」
 正式に挨拶をしたわけではない。にもかかわらず両親公認で一緒に寝ているのだが、それはここで言うことではなかった。
 一時は力の抜けた身体が、ぎゅっと縮まる。動悸(どうき)が激しくなってくる。
「挨拶に、……行っても……」
 弱気な声だ。弘には聞かれたくない。
 もう、とうの昔に聞かれてしまっているのだけれど。
「紹介してくれるのか」
「……はい」
 紹介しないわけにはいかない。
 単にけじめと思っているからなのか、弘に合わせる顔がないから仕方なくそうするのか、八代にははかりかねている。だから返答は心許(こころもと)なく、曖昧になってしまった。
「日取りを決めなくてはいけないね」
 やさしい声音だった。
 自分が養父だと思っていた昔日(せきじつ)のあのひとは、本当に、今話している彼なのだろうか。
「……ありがとうございます。でも、……その前に一度、会っていただけませんか。俺と、ふたりだけで」
「……なんだか怖いな」
 溜息をつくような笑い声が、ひっそりと聞こえた。
「おまえに対しては、申し訳ないことばかりでね。……だが、そうだな。うん。それがいい。そうしよう」
 電話はあまりに呆気(あっけ)なく切れた。
 重苦しく感じていた空気が軽い。こんなに簡単でいいのだろうかと不安になるほど気安いものだった。何に怯えていたのか、なんだか馬鹿馬鹿しい。嘔吐までしたのに、これ以上なく滑稽(こっけい)だ。
 滑稽な自分は、身軽だった。



 弘に話しかけるのに、勇気はそれほど必要なかった。
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