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 体調の悪さを誤魔化し、彼女をやんわりと遠ざけたのに、八代の心にあるのは罪悪感ではなく、彼女に対する思慕(しぼ)だ。
久我(くが)先輩! おかえ――じゃない、お久しぶりです」
 言い直した寿生が照れ笑いする。八代も笑った。
「まだそんなに時間は()いてないと思うけどね」
「毎日会ってましたから、ちょっと会わないだけで懐かしいんですよ」
 柘植先輩呼んできます、と言って寿生は温室の奥に向かった。
 六月は病気に気を遣う時期だ。害虫予防の難関月でもある。毎日葉を確かめていた日が遠い。
「久我先輩、おか――」
 ちょっと止まった。
 気を取り直すみたいに弘が笑う。
「こんにちは。お花の調子を確かめにこられたのですか?」
「それもあるけど、柘植サン誘いにきた」
「? なんのお誘いですか?」
 弘の麦藁(むぎわら)帽子に巻かれているレースのりぼんがふわふわ揺れる。腕まくりをしている袖から覗く彼女の腕は細くて、外仕事だというのにほとんど()けていない。赤くなるだけで黒くならないタイプらしい。友人に美意識の高い伊織がいることだし、日焼け対策はしっかりしていることだろう。
 一応去年までは半袖のこともあったのだが、真夏に「袖がないと陽射しが痛いことに気がつきました」と長袖を着るようになった。学校の外となっても弘はほとんど半袖を着ない。いつも七分丈だ。ノースリーブなどあり得なかった。
「一緒に寝てほしくて。報告もあるしね」
 弘は追及することもせず、「はい」と(うなず)いて笑みを見せた。
 温室の中をぐるりと回った。ここに来られるのはあと何回だろう。寂しさがあるのは事実なのに、一方で、もういいのだと思っている自分がいる。
 しがみつく必要はない。
 八代の内側に構成された世界は、閉じられていた箱庭だった頃の温室によく似ていた。弘が温室で微笑むようになって、ここは開かれた場所になり、光射す庭に変化して、八代の世界にはひびが入った。
 弘は神様ではないと思う。
 神様みたいだけれど、神様とは違う。
 でも、「わたしを信じてください」と言い、八代を(ゆる)した彼女は神様だ。彼女は八代の世界を変えた。現在進行形で変えていっている。
 だとしたら、やはり神様なのかもしれない。
 世界を変えるのは神の御業(みわざ)だ。
 八代は恐れていた。(から)が割れるのにも、外の世界に触れることにも臆病だ。
 そこでは八代は、傷だらけで何も持っていない裸足の子どもでしかない。



 電話をしたら雅が出た。「ここ何日か連絡なかったからどうしてるかと思ったよ、よく眠れるといいね」と言ってくれた。
 学校帰りに買ったアイスを、ソファに並んでふたりで食べる。ひんやりと甘いのが口の中を冷たくする。
「ハーゲンダッツなのは今日のご報告がよいものだからですか?」
 スーパーカップのチョコレート味を食べながら問われて、笑いが漏れた。
「あんまり関係ない。おいしそうなバニラが見つからなかったからこれ選んだだけ」
「スーパーカップはだめですか?」
「せっかくなら違うもの食べたい」
 食の冒険までするようになったのだから、こんなところまで変わったのかと思う。
「涼しいお部屋でアイスをいただくのって、贅沢(ぜいたく)ですねえ」
 のほほんと幸せそうに笑う。
 この笑顔を(くも)らせてしまう日が近づいていた。
 自分はどうなるのだろうという不安はある。
 弘を信じていないのではない。世間一般というものを考えたとき、それとすり合わせたときに、諦めるしかない理由だとわかっていた。
 歯を磨いて明日の準備をして、適温が保たれている寝室の大きなベッドに横になる。
「電話したよ」
 ぽつりと言った。
 隣に寝ている弘の鳶色の双眸(そうぼう)が瞬く。
「ご実家ですか?」
「うん」
 養父との電話を思い出す。
 滑稽だった。
 ふたりともが緊張して、ぎこちなく気を遣い合い、そして会うことを約束した。
「今週末会いにいく」
 三者面談の出席も頼まなければいけない。
 何々しなければいけない、が多すぎる。
 この考え方は人間に大変なストレスを与える。余裕がなく、グレーゾーンがほとんどない。自分に対する強制だ。()(つぶ)される原因になる。
 わかっていても、八代は使う。
 何々しなければいけないと言って、ひとつずつ片付けていく。
 ――今まで思考を拒否してきた証拠としっぺ返しだ。取り戻すのは簡単じゃない。
 取り戻すために、強い発条(ばね)で引き寄せる。
「柘植サンにも予定はあるだろうから、無理なら無理って言って。今週末、柘植サンがいやじゃなかったら、……ごはんつくって待っててほしい」
 弘の指が八代の頬に触れた。
「先輩のお気に入りメニューでお待ちしております。卵焼きと茶碗蒸し、どちらがよろしいですか?」
「卵焼き」
「わかりました。(しゃけ)とマカロニのグラタンをおつくりします」
「楽しみにしてる」
 静かな夜がふたりを包む。
 八代はいつものようにキスをもらって寝た。
 夢は見なかった。



 蒸し暑い晴れの中、電車を乗り継ぐ。
 さすがに迷いはしないが、まったく知らない土地のように思えた。
 長いアスファルトがずっと続いている。バスを降りてしばらく歩いていくと、長い白い(へい)が八代の前に姿を現した。
 塀に沿()って、再び歩く。
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