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 懐かしいとは思わないが、嫌悪感も湧かなかった。
 門は大きい。背の高い鉄柵だ。上部が半円になっており、細い鉄が蔓のような曲線を描いて走っている。
 チャイムを鳴らした。
 使用人はすぐに出てきて、八代は屋敷内に案内された。使用人は何も言わず、八代と視線を合わせようとすらしない。
 主人の我儘な息子を見て彼女が何を思っているかはわからなかった。八代としてもどうでもいい。けれど、たったひとつ、このひとは俺の出自を知っているのだろうかという疑問だけが胸の(はし)(かす)めた。
 絨毯(じゅうたん)を踏む足音が重い。
 この屋敷には、何人の人間がかかわっているのだろう。
 八代はそれすら知らなかった。
 扉の前まで来た。
 嘔吐感はない。偏頭痛もなかった。身体も寒くないし、腹は満たされていて、怪我もしていない。
 静まっている自分を不思議だとは思わなかった。
「失礼します」
 声にも緊張はない。
「――八代」
 養父――朋幸(ともゆき)はがたりと上等な革椅子から立ち上がった。少しよろめく。使用人を下がらせると、八代に駆け寄ろうとした。
「お久しぶりです」
 八代は朋幸が近寄ってくる前に、足を速めて大きな机の前に立った。
 朋幸の書斎だ。そんなプライベートな部屋に通してくれたことが意外だった。電話での彼は八代が想像していた養父とは違ったけれど、会うとなれば精々応接間だろうと思っていたのだ。自分の空間に入ることを許してもらえるとは思わなかった。
 壁はそのまま書架になっている。本が隙間なく整然と並んでいた。横文字が多い。読書が趣味なのか、それとも趣味で何か研究でもしているのか。
 飴色(あめいろ)の天板の机は磨かれている。鏡のようだった。
 広い机を挟んで、八代はただ静かに立ち、朋幸は困惑して天板に手を置いていた。
「先日は突然電話して申し訳ありません」
 頭を下げたら、朋幸は一層困惑したようだった。
 やはり、昔日の養父の記憶と合致しない。
「今日はお話があって来ました。電話でお話ししたことです。――進路と、……結婚について」
「……八代。座ろう」
 朋幸が深く苦い溜息をついて、書斎の次の間に移った。八代はおとなしく従う。
 白い木枠の出窓から、梅雨明けの光が降り注いでいる。芝生が光っていた。
 ――雨が降ったのか。
 アスファルトが濡れていなかったから気づかなかった。降ったのは明け方だったのかもしれない。
「進学を考えています」
「そうか。希望校が?」
「あります」
 持ってきた(かばん)から請求した学校の資料を出して、朋幸に向けた。
「……一校だけか?」
「余裕がありません」
 朋幸が意味を判じかねている顔をする。
 髪はきれいな灰色だった。そういえば年齢を知らない。目尻には相応の(しわ)があったが、くちもとは若々しく精悍(せいかん)だ。スーツを着こなした長身は均整が取れて美しく、彼の健康状態がいいことが知れた。
「こんなお願いをするのは、今までのことを差し引いても勝手だと思います。ですが、許してください。きちんと返済しますので」
「返済?」
「借りたお金は返すものでしょう」
 朋幸の両目が見開かれた。
「学費を貸していただきたいんです」
「八代、それは」
「すべて説明しろということでしたら、納得していただけるまでなんでも話します」
「八代、……」
「ここを出ていきます。来春までに住むところも見つけますので、すみませんがそれまではマンションに住まわせてください」
 何故そんな哀しげな顔をするのだろうか。
 ――おまえに対しては、申し訳ないことばかりでね。
 朋幸は謝りたいのだろうか。でも、何を? 彼が謝るなんて、――どんなことを謝るのだろう。
「他人は家族だと思えないか」
 しばらくの沈黙のあと、朋幸が涙を零すような声で言った。
「そうじゃない」
 そんなことは思っていない。家族のはじまりは他人だ。赤の他人が結びついて家族になる。
「今は、あなたには感謝してる。だから俺はここを出ていく」
 八代が、すい、と一枚の紙を出した。それを受け取って、内容を確認したのと同時に朋幸の身体中のすべてが止まった。
 八代の手を見たのははじめてだった。
 美しい字だ。印刷されたものかと思った。かなも漢字も数字も、驚くほど整っている。
「高校を受験してからこれまでに至るすべての金額を返済します」
 冷徹な声ではない。拒絶でもなかった。
 こんなに静かに穏やかに話す人間だっただろうか。
 いつも怯え、顔を(そむ)けて震えていた。かける言葉も見つからず黙々と食事をするしかなくて、ふたり向かい合っているのに視線は一度も交わらない。
 食器の音がいつもより少し大きく鳴っただけで、幼い八代は小さな声で「ごめんなさい」を繰り返した。
 長じてからの八代は、ただ冷たいだけになっていた。
 向かい合って食事をしても、会話は何もない。質問すれば最低限度で淡々と答えた。話が広がっていったことはただの一度もない。
 テーブルを挟んだむこう側で、八代は教えられたそのままの手本のような姿勢とマナーでメニューを片付けていく。好きな食べ物も知らないのだ。皿を出されれば作業としてナイフとフォークを動かすだけ。何を出されても八代は文句を言わずにきれいに食べたが、何を出しても喜ばなかった。
「養育費も出させてくれないのか」
「甘えてるんですよ。これがあなたに対する俺の甘え方です」
 (うと)まれていると思っていた。
 八代はずっと、ずっとそう思い続けてきた。
 けれど、離れの自室から出てこない八代に、食事くらい取りなさいと言ったのは養父で、睡眠に障害をきたしはじめた直後、薬を服用してでもいいから眠りなさいと言ったのも養父だった。それでも眠れないのなら、眠れる場所をつくりなさいと――マンションを与えられた。高校くらいは卒業しなさいと進言もしてくれた。
 諾々(だくだく)と目的もなく過ごしていたのに、生活費はすべて出してくれていた。
 与えられていたものの数や猶予(ゆうよ)の多さに愕然(がくぜん)とする。
 憎しみだけで、ただ遠ざけたいというそれだけで、ひとは何かを与えるものだろうか。与えるという行為は、憎しみだけで可能なものなのだろうか。
 その行為、は、もう憧憬(どうけい)羨望(せんぼう)を抱けるほど遠くにはなくなってしまった。
「俺を息子だと思ってくれているなら受け取ってください。そうじゃないと俺は――今度こそ本当に、どこにもいられない」
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