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 圧し掛かってくる。
 これからやってくる多くの様々なことが八代を襲おうとしている。
 経済力だけではどうにもならないことがあるのはもう知った。でも、経済力だけあってもどうにもならないこともある。
 八代はそれらに対しても立ち向かわなければならない。
 八代は何も持っていない裸足の子どもだ。
 けれども、もう飢えてはいない。寒くもなかった。傷痕はあるが痛くない。
 朋幸が項垂(うなだ)れる。
「……寂しいものだな」
 小さな(つぶや)きだった。八代は立ち上がる。
「入籍したら、葉書くらいは出しますよ。……お世話になりました」
 朋幸に背を向けた。扉のノブに手をかけたところで、(すが)るような声が八代を呼んだ。
「待ちなさ……待ってくれ、八代」
 思わずふり向く。
 命令ではなく、頼まれた。
 八代の視線の先で、朋幸は椅子から立っていた。先ほど出した紙を手にしている。
「それを言うなら、これは父親としてのけじめだ。――それから」
 溜息をつくように肩を(すく)め、朋幸は笑った。
「見栄と我儘だ。父親らしいこと、などとは今さら言えないから、せめて父親みたいなことはさせてくれないか」
 八代ははじめて戸惑った。まさか、養父がこんな情けない、あたたかい笑顔を浮かべるとは思わなかったのだ。
 ぎこちなかった電話の声の持ち主と、目の前の養父が重なる。
「大学の費用を返済したいというのなら、それは受けよう。だが、これまでの生活費や高校における学費を受け取ることはできない。この先おまえがどんなに高収入を得るようになっても、これだけは受け取らない」
 なんだろう、この遣り取りは。
 まるで親子のようだ。
 これまでの清算と将来のことを、真っ向から話している。
 親子になれるのか。
 ――このひとと、俺が?
「マンションを出ていく必要はない。あれはおまえの家だ。どうしても納得がいかないというのであれば、収入を得るようになってから返済してくれればいいし、引っ越すというのなら、そうなったときに言ってくれればいい」
 手の中に、何かが戻ってくる。
 何も持っていなかったはずだ。八代は何も知らず、得たことも何もない。なのに、何かがてのひらの中に戻ってきた感覚があった。
 手の中があたたかいのだ。
 握ればほどけてしまいそうなやわらかいもの。
「結婚を考えているひとがいるのだったな」
 やさしく問われて八代は頷いた。
 言葉が出なかった。
 涙が零れそうになる。
「八代。私が言えたことではないが、ひとは一生のうちで、ただ愛されているだけの時期が必要なんだ。自分が何かをするのではなく、本当にただ黙って抱かれているだけの時間がいる。それは多くの場合幼い頃に満たされるものだし、そうあるのが理想だ。だから――」
 いいひとを見つけたな。
 朋幸は、八代が想っている相手がどんな人物なのかをまったく知らない。どのように出逢ったのかも知らないし、久我家の事情をどれくらい把握しているのかも知らない。
 八代が抱える闇を、どれほど包んでいるのかなど、知りようもない。
 朋幸は幼い八代を救えなかった。哀しいことだがそれは事実で、過去のことだから動かしようがない。
 今の八代はどうだろう。
 未来の彼は。
 父親が救うには、彼は成長しすぎている。朋幸にできるのは、八代を信じることだけだ。
「挨拶をさせてほしい。急がないから、どうか」
 八代だけではなく、八代が愛するひとも信じるから、どうか。
「許してほしい」



 茶の一杯も出なかったな、と今さらになって思い至る。
 まあ出してもらったところでどうせ飲めない。そんな悠長(ゆうちょう)に構えていられるわけがなかったのだから、茶葉が無駄にならなくてよかった。
「暑……」
 太陽は真上だ。(さえぎ)るものが何もない上、道はアスファルトだから余計に暑い。
 ――倒れそう。
 不健康なのに体力はあるという謎の身体構造をしている八代だが、暑さにはやや弱い。元気いっぱいでコンビニアイスを渡り歩く雅が羨ましかった。
 大きな門から外に出る。
「お兄さん」
 戸惑いの滲んだ声にふり向くと、制服姿の少年が立っていた。やわらかそうな黒髪の、色白な品のよい少年だ。身長こそ高いが、骨格は成人男性にはほど遠い。
 八代はかすかに苦笑した。
「名前でいいよ。今さら困るでしょ」
 悪意を持って言ったわけではなかったが、美文(よしふみ)はやや女性的な眉を哀しげに(ひそ)めた。
「……ごめん。いやな言い方をしたね」
 美文は朋幸と、八代の養母である美和子(みわこ)の間に産まれた息子だ。彼がいかにも聡明そうな外見どおりの人物で、かつこれからもよい方向へと成長していくのだとしたら、朋幸の会社は美文が継ぐことになるだろう。
 朋幸が親族経営を守っていく気などさらさらないと、八代は一応知っている。
 経営の才、能力なしと見られた場合に美文がどうなるのか、八代にはわからなかった。興味も持てない。他人なのだ。(した)わしい他人ではなく、顔と名前を知っているだけの他人。
「いえ。僕の方こそ、厚かましい……すみません」
 (うつむ)いた美文を見て、他人だと思いながらも八代は寂しくなった。どこから来た寂しさなのかは判然としない。ただ、目の前で項垂れている少年が実際の年齢よりもはるかに落ち着いていて、何より控えめであることに小さな罪悪感を覚えた。
 八代が世界を閉じて傷つき続けていた頃、彼は心細い幼少時代を過ごしたのだ。
「背、伸びた?」
 眩しい気がして(たず)ねたら、美文の顔が少し明るくなった。わずかに照れて笑う。
 笑い方も、やはり控えめだ。
「はい。一気に五センチほど。伸びるようになると早いんですね」
「なんで制服?」
「図書室に行きました。希望した本が入ったので、月曜まで待ちきれなかったんです」
 弘みたいなことを言う。
 美文がおずおずと歩み寄ってきた。
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