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 近く、までは来ない。
 他人の距離だ。厚かましいと落ち込んだのだから、当然の距離でもあった。
「お父さんに会いに来られるのだと聞いて……声をおかけしたのは、やっぱり、ご迷惑でしたか」
「迷惑とは思わないけど、びっくりはした。謝らなくていいよ」
「……お話をお聞きしてもよろしいですか。お父さんにどのようなご用があったのか、朝から気になっていたんです」
 わざわざ制服に着替えて学校の図書室に行くことを選んだ、本当の理由はそれか。本も嘘ではないのだろうが、本心は、八代と朋幸がどんな話をするのかが気になったところにあるのだろう。首を突っ込んでしまう自分を想像して、不安になったのかもしれない。
 八代は壁に沿って立つと、手招きした。
「ありがとうございます」
 嬉しいというよりはほっとした表情だった。
「話としてはありふれてるよ。進路と結婚のこと」
「……結婚」
「うん」
 陽射しが熱い。とはいえ屋敷に戻る気はなかった。
「ごめんね暑いのに」
「いえ、そんな、気にしません。……お兄さん、ご結婚なさるんですか」
 進路に反応しないのは当たり前のことだからだろうか。それとも、結婚のインパクトが強すぎるのだろうか。
「そういうことになってる。まあ実際問題山積みなんだけど、あれもこれも肯定されちゃって」
 ――真実いちばんの問題の告白は、まだしていない。
 美文が黒い目を瞬かせる。
「見合いではなく?」
「違うんだよねえ」
「では、恋愛結婚……ですか」
「見合いじゃなければ恋愛結婚っていうならそうなる」
 恋愛をしている実感は未だにない。もっと別の何かのような感じがしている。
 大体にして、恋をするとは具体的に何をするのだろうか。
 美文が穏やかに破顔した。
「素敵な女性なんですね」
 八代は眉を寄せる。
「返答に困るなあ……」
 素敵といえば素敵なのだろうが、なんか違う。
「家を出られるんですか」
 心細いみたいな声で問われた。
「うん」
 弘を迎えるのか、彼女に迎えてもらうのか。それはまだ話していない。
 八代は結婚の話が消えてなくなるかもしれない秘密を持っている。弘に打ち明けなければならなかった。
 ――やることが多い。
 果てしないほどだ。
「こちらには帰ってこられないんですか?」
「うん」
 美文の顔が陰る。
「……僕がいるからですか」
「誰に言われたのそれ」
「……使用人に」
「俺があのひとの地位にいたら即刻馘首(かくしゅ)するね。俺がこれまでこの家にとって何か利益になるようなことした? これからだって学ぶ気すらない。血縁もない」
 今からでも朋幸と親子になれるだろうか。
 てのひらを見る。
 何かが戻ってきたと感じた。あたたかい、握ればほどけそうなやわらかいものだ。
「お父さんとは呼ばないんですね」
 八代はぎゅっと首を竦めた。
「時間が経ちすぎてるんだよ」
「でしたら、僕がお兄さんとお呼びするのもご迷惑ですか」
「それとこれとは話が別でしょ。好きに呼んでいいよ。あのひとが俺にとって一応父親なのと同じで、キミにとって俺は一応兄だしね」
「一応だなんて……」
 美文は一旦目を伏せたが、すぐに顔を上げた。
「家を出られると聞きましたが、それはご結婚なさるから、婿(むこ)養子に入られるからという意味ですよね? この家を捨てるという意味ではありませんよね?」
「んん、婿養子の話も実はまだまとまってないんだけどね。……家はねえ……捨てる予定だったんだけど、その必要がないらしいことがわかっちゃってね」
 もう二度と顔を見ないつもりで訪れた。ところが現実はどうだろう。八代はまた養父と会う約束をした。
 ――もう少し話したい。心の準備をしたいから、時間をくれないか。
 そのあと、
 ――ああ、三者面談があるな。すまない、完全に失念していた。いつ行けばいいだろう。
 ちょっと慌てている様子がおかしくて、八代は少し笑った。
 八代の笑顔を見て、朋幸も笑ってくれた。
 なんとも他人行儀な親子があったものだ。
「俺、キミに何かしたっけ? さっきからやけに気遣ってくれてるけど」
 美文をかわいがった記憶はない。かといって、憎らしく思ったこともない。邪険(じゃけん)に扱ったこともないと思う。弟がいると漠然とわかっていただけで、身近な存在ではなかったというだけだ。
「僕に最初に辞書の使い方を教えてくださったのが、お兄さんだったんですよ」
「そうだったの?」
 まったく覚えていなかった。
 美文が控えめな声を立てて笑う。
「お忘れになっているのでしたら、たいしたことではなかったのでしょう。何気ない日常は記憶に埋没(まいぼつ)するものですから、お兄さんにとっては日常だったんでしょうね」
「そんな平和な日常があったなんて信じられない」
 恐怖から遠かった頃があったのか。
 いつかはわからない。
 記憶を探ってみても、何も引っかからなかった。
 けれど、八代の手の中には何かが戻ってきた。
 記憶に埋没するような何気ない日常の中で、知らず知らずのうちに得ていたものがあったのだろうか。
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