back  |  next   
「お兄さんはいつも僕にやさしくしてくださいましたよ。……やさしくて、聡明で……僕の(あこが)れです」
 きれいな眼差しに見つめられて、八代はさりげなく顔を背けた。憧れられる自分が存在するなんて思ってもみなかったし、だから一層恥ずかしかった。
 真摯(しんし)な視線を受けるたびに顔を出す後ろ暗い過去の自分が、八代を責める。



 弘の卵焼きはやっぱりおいしい。鮭とマカロニのグラタンも美味かった。キャロットグラッセまであったものだから、八代は心底腹と胸が満たされた。
「おなかいっぱいっていいよね」
 食器を洗いながら上機嫌で言う。
 八代の機嫌は相変わらず表に出ない。彼としてはものすごく気分がいいのだが、表情はたいして動いていなかった。いつものようにしれっとしている。声の調子も変化がないのだから、(はた)からではわからない。
「おなかいっぱいはしあわせですよ」
 弘が冷蔵庫からチーズケーキを持ってくる。
「つくったの?」
「はい。今日は先輩のとびっきりがんばりましたデーなので」
 無邪気な言葉で(くく)られて安心した。ふっと笑ってしまう。身体が揺れて、皿が滑った。
「紅茶は俺が淹れてあげる。待ってて」
「はい」
 楽しみです、と言いながら、弘はケーキを切り分けた。ふたりで食べるだけ――のはずなのだが結構大きい。気のせいか。たぶん気のせいじゃない。
 八代は弘に十七年分の誕生日を祝ってもらっている。ひたすらケーキを贈られた。で、ふたりで食べた。八代は
 ――柘植サン、太らないなあ。
 と思って(いぶか)しい気持ちでいたのだが、よく考えたら自分も太っていないのだった。
「柘植サンもう少し太った方がよくない?」
 最後の一枚を洗い終わる。弘はきょとんとした。
「適正体重ですよ? 標準キログラムです。……少し足りないかもしれません、けれど、普通の範囲です」
「何キロ?」
 女の子に体重を訊くとはいい度胸をしている。八代は部分的にデリカシーがない。
「……」
「ないしょ?」
「いえ。……最近……少し軽くなったなあと」
「太って」
「前向きに努力します。暑いので消費が激しいのでしょうか」
 そんなものなのかなと思いながら、八代は紅茶を淹れて、弘とふたりでチーズケーキを食べた。



 三者面談はあっさりと終わってしまった。
 ――こんなものなのかな。
 手応えというものが感じられない。それどころか、肩透かしを食らったような気さえした。もっと何事か変わるのではないかと思っていたのだが、特にこれといったものはない。
「どうぞ」
 朋幸にアイスティーの缶を差し出した。
「ああ、ありがとう。缶の紅茶を飲むのははじめてな気がするな」
「砂糖ですよ」
「それはいい。甘いものは美味い」
 大きな公園は輝くように眩しかった。緑は繁り、大気は熱い。植わっている木はどれも立派な幹で、ずっと大切にされ続けてきたことがわかる。
 この緑に触れる日が来るのだろうか。
 大きな桜は、小さな池に傘を差しかけるようなかたちで枝が伸びている。日陰のベンチに座って、八代と朋幸はそれぞれ息をついた。
「今日はありがとうございます」
「やって当然のことを、やっとやっただけだ。すまなかった。今まで大変だっただろう」
「微妙なところですね」
 ああでもないどうしようこうでもないどうしようと悩んだのは自分自身だ。朋幸に責はない。
 まだ(せみ)は鳴かない。
 もうすぐだ。
 夏休みがやってくる。
「夏季講習はどうする?」
「行きません。独学で(のぞ)みます」
「そうか」
 暑い。すべてのものに、陽の光が強烈に突き刺さっている。制服が光と影で(まだら)模様になっていた。風が吹くたびちらちらと踊る。
 雲はもう真夏のそれだ。空の青さもきっぱりとしていて(いさぎよ)い。
「言い訳――どころか、信じてもらえないかもしれないし、それも当然だと思うのだが」
「なんですか」
 朋幸は困ったように笑った。
「美和子が()ったとき、おまえにも(しら)せようと思ったんだ」
 八代は養母が他界していたことを知らなかった。葬式にも呼ばれない身だったのだ。といっても、知らされたところで動けなかっただろうというのが正直な感想だった。当時八代は眠れておらず、疲弊しきっていて、入院していないのが奇跡に思われるほどだったのだ。立ったり座ったりする長時間に耐えられる身体ではなかった。
 それでも報告くらいはするものだろうと思ったのは、世間の常識と照らし合わせたから出てきたものだ。心から望んだわけではない。あまりにも調子が悪ければ、ショックを与えないようあえて知らせないこともあるかもしれないと考えたら、そういうこともあるだろうと納得してしまった。
 三者面談の日取りの確認をしようと電話したら、いきなり告げられた。
 泣くことは、できなかった。
 そうか、もういないのかと、どこか遠い気持ちで思った。朋幸を恨む気持ちもなく、八代は「そうですか」としか答えられなかった。
「そうですか」
 アイスティーの缶を(もてあそ)びながら同じ相槌(あいづち)を打つ。隣から忍び笑いが聞こえてきた。不審に思って見ると、朋幸が眉尻を下げて震えていた。
「社交辞令でいいから、もう少し関心があるように振る舞ってくれないか。寂しいじゃないか」
「そんなこと」
 言われても困る。
 はっきりと口に出せず、手遊(てすさ)びに缶のプルタブを引っ張った。ぱしっ、と音がして口が開く。
「まあ、そうさせたのは私の責任でもあるのだろうな」
「全部あなたが悪いなんて思ってませんよ」
「そう言ってもらえると救われるな。……開かない」
 back  |  next



 index