back  |  next   
「貸してください」
「すまん」
「こういうときは、ありがとう、です」
 ぱしっ。
 朋幸が目を細めた。
「いいひとを見つけたな」
「見つけたんじゃなくて、見つけてもらったんです。あっちに」
 冷たい缶に口をつける。よそよそしい甘さだと、いつも思う。
 自分の温度と外気温の差にびっくりした缶のために、手が少し濡れる。
「で?」
「ん?」
「他界した妻の話はどうなったんです」
「ああ」
 うん確かに甘いなと言って、朋幸は缶をぐいっとやった。ネクタイを緩めもしないところに性格が表れている。この暑いのにジャケットも脱がない。
「おまえのことを心配していた。おまえが倒れた責任の一端が自分にあるのではないかと。あまりにも関わっていけなかったから、不安だったんだ」
 自分だけが異質なのだと思っていた。
 弾かれていて、不安だと。
 それが、どうだろう。
 八代の周囲にいるひとびと、朋幸も美文もみなが不安な時間を生きてきている。亡くなった養母も。
「あのひとに責任があったわけじゃありませんよ。関係が希薄なままだったのは、俺がろくすっぽ部屋から出なかったせいだし。出たと思ったら次はひとり暮らしなんかはじめて、話す間もなかったでしょう。あのひとだって、暇だったわけじゃない」
「だからそれを後悔していたんだ。しゃしゃり出るくらいの勢いがあってもよかったのではないかとね」
 万事において控えめな女性だったように思う。自分を持っていないわけではなかったが、あまり前には出ず、一歩後ろで微笑んでいるようなひとだった。
 だからだろうか。
 彼女についての記憶は、顔かたちも声もすべておぼろげだ。(もや)の先にうっすらと陰影だけが見えて、それが彼女であるとわかってはいるという程度。
 肉親でないことに引け目を感じていたのだろうか。夫が八代とうまくいっていなかったから、余計に口を出せなかったのかもしれない。
 しかも、うまくいっていない理由が理由だ。
 八代は望まなかった子どもですらなかった。予定も何もあったものではない。知らなかったのだ。その上、父親は朋幸ではない。おまけに八代の顔立ちは母親似で、左目に至っては否が応でも実の父親を思い出してしまう色をしている。
 朋幸だって、今でこそ八代と穏やかに会話し、缶のプルタブを頼んだりもするが、それはあくまでも今だからできていることだ。まだ彼が今より若かった頃、八代が今より幼かった頃、ふたりの間の(みぞ)は広く、冷たかった。
 そこに負い目を感じていたのかもしれないと、少しだけ成長した八代は思う。
 ――あのとき、しゃしゃり出るくらいの勢いで割って入っていたら、八代は部屋に閉じこもったり、不眠で倒れたりしなかったかもしれない。
 そんなふうに思っていたのだとしたら、彼女はどれだけ心細かっただろう。八代の様子を見にもいけない自分を、どれほど不甲斐なく思っただろう。彼女は恐らく、とても臆病で繊細で、美しいひとだったのだ。
「……あのひとが倒れたのは、俺のせいですか」
 ――もしかしたら。
 もしかしたら、あのひとは、八代と似ていたかもしれない。
「いや。乳癌だ。おまえのせいではないよ」
 八代もアイスティーをぐいっとやって(から)にした。缶やペットボトルは手軽だが、飲み切るときに上を向かなければならないのがいやだ。
「まあ、確かに。子の未来の素行不良が親の遺伝子に影響を与えるなんてあったら困りますけどね」
「だろう。だからおまえの素行不良は関係ない」
「なんで俺が素行不良だったこと知ってるんですか」
「裏表なく優等生だったら、そちらの方が怖いだろう」
「そうですね。お陰様で元気ですし」
 朋幸が愉快そうに肩を震わせる。
 やがて笑みを収めると、わずかばかり足もとを見た。
「……あのことは言ったのか」
「……」
 八代の秘密は大きく分けてふたつある。
 ひとつは、片方が隠蔽(いんぺい)の瞳であること。
 そして、もうひとつは。
「入籍したら葉書出しますって言いましたけど」
 仕方がないと思うしかない。八代だって納得する。それほどのものだ。
「叶わないかもしれません」
 朋幸はなんとも(こた)えなかった。
「出るには出ますよ。お世話になりましたって言ってしまいましたので、貫徹します」
「どうしても出るのか」
 目が合った養父の顔は、少し寂しげだがすっきりしている。
「……俺がいると厄介(やっかい)でしょう。色々と」
 ほんの少しだけ苦笑した。美文の眼差しが思い出されたのだ。
 あんなにきれいな眼差しを持つ弟を、哀しませたくない。
「美文から聞きました。使用人の中に、美文がいるから俺が帰ってこないと思っている者がいるそうですね」
「そのようだな」
 知ってはいるらしい。
「中途半端にいるようでは迷惑しかかけません。もうじゅうぶんかけましたしね」
 朋幸に向かって手を出す。
 握られた。
 笑って「違いますよ」と言うと、慌てた養父はなんとか理解して空き缶を渡してくれた。
「出ていけば終わるという単純なものではないでしょうが、まあ、そのへんは一朝一夕で解決するものではないでしょうから、腰を据えてやっていきましょう。とりあえず、後継問題や遺産相続云々に巻き込まれて殺されるなんてミステリー小説の第一被害者みたいになるのはいやなので、真面目に向き合いますよ。少なくともこの件に関しては」
 日向に歩き出す。熱い陽射しが髪に焼きつく。
 ごみ箱に空き缶二本を入れた。
 かこん、かこんと軽い音が鳴った。



 期末試験が終わった足で『G*G*』を訪れた。
「遅くなりました。申し訳ありません」
 頭を下げた八代に、モスグリーンのキャップをかぶった成春(しげはる)が「いーよ気にするな」と笑う。久しぶりに見る彼の笑顔はやはり少年のようで、世の中には昼間しかないような気がしてしまう。
「進学かぁ。それがいいよなあ」
 back  |  next



 index