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「造園関係に進むことにしました」
「……ん?」
 キャップのつばを持って、ぐりぐりと位置を直す。
「造園施工管理技士と造園技能士です。受験資格が学歴で変わってくるでしょう」
 成春が口を開けた。
 すぐ閉じる。
 (あご)をざらりと撫でた。顔の皮膚まで硬そうだ。
「……選んだんだなあ」
 ものすごく感心した顔で、ひょろりと魂まで抜け出てしまいそうな声で言う。そんなふうに言われたら、八代は笑顔を見せるしかない。
 静かに微笑した。
 それが八代の精一杯だ。
 弘のように、明るく屈託(くったく)なくは笑えない。
「卒業まで四年かかります」
 ――待っていてくださいますか。
 調子のいいことだから言いにくい。逡巡(しゅんじゅん)が唇を掠めている間に、
「椅子空けて待っとく。四年後が楽しみだ」
 成春に親しげに肩を叩かれた。
 八代の居場所が、少しずつ増えていく。



 博に教えられ雅に鍛えられて育った弘は、家事はなんでもきちんとこなす。料理だろうが掃除だろうが洗濯だろうが、丁寧に片付ける。菓子までつくる。
 八代はずっと、弘は料理が好きなのだろうと思っていた。レパートリーが豊富で、なんでも美味いから、好きこそものの――という(ことわざ)が頭に浮かんだためだ。
 彼女がもっとも愛している家事は、アイロンがけだった。
 柘植家で寝起きしたとき判明した。畳んだシャツをボストンバッグから出して、「ああやっぱり皺はつくな」と思っていたら、後ろにいた弘が明らかにそわそわしはじめたのだ。
 ――なに?
 ――あ。
 ばれた、という顔をした。全身でそわそわそわそわしているのだからいやでも気づく。
 ――わたし、アイロンがけが好きなのです。ご迷惑でなければ、アイロンがけさせてください。
 断る理由もなかったので任せた。
 ものすごく上手い。
 八代は洗濯といえばクリーニングだった。だから、シャツの皺なんか基本的に見たことがない。皺は着てはじめて出来るものであって、手に取ったときはまだないものなのだ。
 プロにお任せしていた身だから、「一般人のアイロンとはどう違うのだろう」という興味があった。優劣をつけようというのではなく、単純な比較をしてみたかったのだ。おおこんなふうに違うのかと思ってみたかった。
 結論からいうと、わからなかった。
 まあそうなのだ、興味がある比較してみたいと思ったところで、クリーニングから帰ってきたシャツの整い方などいちいち覚えていない。意識したことがなかったのだから当然の帰結で、八代の比較計画はひっそりと頓挫(とんざ)した。
「ねえ、柘植サン」
「はい。なんですか、久我先輩?」
 柘植家の和室に、アイロン独特のにおいが空気を伝わる。人工的なあたたかさだ。ヒーターとは違う。少し、びぃんとするような。
「見合い結婚の対義語ってなに?」
 博のシャツをぴんと伸ばして、弘は少し考えた。
「対義語。対義語ですか」
 美文が、見合いではないのなら恋愛かと問うてきたのだ。ということは、対義語は、たぶん『恋愛結婚』だろう。
 弘はどう思っているのだろうか。今の自分たちを。彼女は恋をしているのだろうか。八代は恋もわかっていない。
 ――具体的に何するんだろう。
「恋愛結婚――でしょうか」
 こくん、と首を傾げる。
 台にシャツを広げ、アイロンを取る。布に触れた途端に、しゅぅっとかすかに水が飛ぶ気配がする。
 網戸のむこうからは蝉の声が聞こえた。扇風機が回っている。一生懸命首を振ってくれているが、残念ながら肝心の風があまり来ない。
 畳の上に出した盆に、八代が淹れたレモンティーが載っていた。縦に長いグラスに氷の心残りが宿っている。細いストローがかすかに揺れた。円形のグラスの口に沿って転がる。
 姿勢を変えると、反射で輝く水滴の位置が変わった。太陽はあの辺りか、と少し首を伸ばして外を見る。
 盆と畳に、レモンティーを透かした色が涼しげに透きとおって広がっていた。所々白く飛んでいる。それだけ外が明るいのだ。
 夏の昼下がりは気だるく、音がどんどん遠ざかっていく。
「柘植サンは、恋してるの?」
 小さな折り畳みのテーブルには、ノートやらなんやら。
 朝来てみたら雅はいなかった。友人宅に遊びにいったとのことで、入れ違いになったらしかった。博はもちろん仕事中だ。
 柘植家にはふたりきりで、ほかの部屋からはどんな音も聞こえてこない。シャープペンシルをノックする、かちかちという音だけがやけに大きく感じられる。
 夏においては、蝉の声は風と一緒で、そこら中に響いているものでありながら無音の仲間だった。
「いいえ。していない――と思います。よくわからないのです」
 アイロンの熱のにおい。
「わたしは、恋がどのようなものなのかを考えるのもやめたのですよ」
 八代はノートを閉じる。
 夏空の遠く、雲が光る。
「まったく考えたことがないわけではありません。ひとによっては恋は人生を変え得るものでしょうから、わたしにとってはどうだろうと思ったことはあるのです。……残念ながらわかりませんでしたけれど」
 言いながら新しいシャツを取り上げ、ぴんと張る。
「恋という概念やそれに対する価値観について、何も考えなくてもいいとは思いませんが、感覚で(とら)えるしかないものとも思いましたので、恋がどのようなものかと限定するのはやめました。断定もしません」
 すいとアイロンを滑り込ませた。
「先輩は、わたしに恋されている方がよろしいですか?」
 にこ、と笑いかけられる。
「柘植サンて時々ひどいよね」
「そうでしょうか」
「しかもこういうときは何故か謝ってくれない」
無闇(むやみ)に謝るのは失礼です」
 ストローの先で氷をつついた。からり、からりと揺れる。
「その恋の概念とか価値観っていうの教えて。どんな例があるのか」
 弘はかちりとアイロンの電源を切った。コンセントを抜く。アイロン台の上に置いて、先ほど皺を伸ばしたばかりのシャツを丁寧に畳みはじめた。
「伊織ちゃんによりますと、恋はすべて終わるものだそうです」
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