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「うん」
「綾ちゃんは、叶わなくても大切にしまっておくものだと」
「……うん」
「鷹羽くんは、叶わない方がいい想いもあると教えてくれました」
「……」
 ――鷹羽が。
 そんなことを言ったのか。弘に。そんなふうに捉えていたのか。恋を。
 叶わなくてもいい想い、は、誰に向けられていたのだろう。八代だろうか。弘だろうか。どちらにせよ叶わない。鷹羽が言ったというその言葉どおりに。
 ――どうして鷹羽は、柘植サンに恋してないと思い込んでるんだろう。
 こんなに想っておいて。
 弘しかいないのだろうに、彼もきっと自覚しているだろうに、どうしてその感情に恋と名づけないのか理解できなかった。
 概念の違いなのか。価値観の相違か。
「有馬サンは?」
 答えがすぐに返ってこなかったから顔を上げた。八代が投げかけた視線の終わり、弘は珍しく寂しい微笑をしていた。
「不幸にはなるなと言われました」
 返答にはなっている。
 でも、恋の概念や価値観についての答えにはなっていない。
 次子は八代にとても近い。理由はわからない。彼女の持っている何かと、八代の持っている何かに、どうして通じるものがあるのかもわからなかった。
 その『何か』がなんなのか、それさえわかっていない。
 次子の家庭は円満だという。その中で育ったにもかかわらず、彼女は八代を見抜くのだ。八代の闇に触れるのだ。
「有馬サンって欲あるのかな」
 恋すらしないのだとしたら、彼女は弘に何を求めているのだろう。
「ありますよ。庇護欲も保護欲も欲ですから」
 安穏(あんのん)とした声にさらりと言われ、八代は思わず身体ごと弘に向き直った。
 視線の先で、弘が笑う。
「次ちゃんは大切なものを守ってあげたいという欲がとても強いのです」
 畳み終わったシャツを重ねる。白いシャツが行儀(ぎょうぎ)よく積み上がった。
「何かをしたいという気持ちはもちろん、何かをしてあげたいと思うのも欲です。愛情は執着と言い換えることもできます。出家すれば断ち切らなければならないものですよ。先輩は欲があることにお困りなのですか?」
 弘は(そば)に置いてあった団扇(うちわ)を取ると、はたはたと風を送ってきた。
「わたしは愛情を断ち切るつもりがありませんので、出家する予定はありません。先輩はご出家なさいますか? 在家(ざいけ)僧侶という選択肢もありますし、おうちにいることは可能ですよ」
「しない」
 自分ほどの煩悩塗れに出家の二文字はない。したところで修行などできないし、それこそ文字どおりの苦行だ。仮に寺に放り込まれても、還俗(げんぞく)するのが目に見えている。
「でしたら欲は恥じることではないと思いますよ。俗世にあって当然のものです。行き過ぎれば問題ですが、それは何も欲に限ったことではありませんから」
「でも、俺の欲は――有馬サンみたいに、きれいじゃない」
「どのような欲ですか?」
 ――訊かないでよ。
 哀しくなるから。
 苦しくなるから。
 ――俺の欲は、きっと柘植サンを壊す。
 弘は八代の秘密を暴く。彼女が無知だからではない。やさしいから、八代は自ら暴かれるのだ。
 どんなにつらく思っていても、恥ずかしくても、受け入れてくれるのではないかと。
 赦してくれるのではないかと。
 ――でも。
「今さらになって言うのは卑怯だって、自覚はあるんだけど」
 拒まれても仕方がない。
 この話はなかったことにしてくださいと、言われても仕方のないことだ。
 弘はとても愛されて、幸福な子ども時代を過ごしてきた。彼女にとって、家庭は疑うべくもなくあたたかい場所だろう。やさしい両親を見て育った彼女が家庭を持ったとき、子どもを望むのは当然の気がする。それは責めようもないことだ。
 だから、駄目かもしれない。
 肺が冷たくなる。
「柘植サン、子ども欲しいと思う?」
 欲望だの出家だのと話していた先に出てきた言葉は、弘からしてみれば唐突だ。大きな目をぱちぱちさせている。
「突然ですね」
「欲しい?」
 俯いたら駄目だ。ここはそういう家だ。
 でも、俯いてしまった。
 ()てられるのが怖い。
 弘を疑っているのではなく、棄てられ続けた過去に(おびや)かされている。
 喉が痛く、苦しい。心臓が握り潰されそうだ。
 弘は微笑んだ。
「今のところ、明確に欲しいと思ったことはありません」
「俺に気、遣ってない?」
「遣っていません」
 思いがけず厳しい声で否定された。あまり聞くことのない声音に驚いて、(おもて)を上げる。
 弘の表情に笑みはなく、いつもは甘い唇が引き結ばれていた。
「柘植サン」
「大切なことでしょう。気を遣って本心を誤魔化してお伝えするつもりはありません。それに、お忘れですか? わたしはあなたに真実を尽くすと決めているのですよ」
 偽られないことには安堵できる。これまで散々にひとを偽ってきたくせに、いざ自分がそうされるかもしれないと思うと、たとえようのない焦燥と不信に心を覆われた。
 罪悪感もあった。
 だからこそ、弘が誓っている真実は、八代を安心させてくれる。
「……俺が」
 言わなければいけない。
 弘の言うとおり、大切なことだ。
 この点を譲り合えずに別れる者もいる。それはある意味仕方のないことで、恐らく将来的にはいいことのはずだ。
 そうは思っても踏ん切りはなかなかつかなかった。
「先輩。わたしを見てください。きちんと。大切なお話なのですから、目を見てお話ししましょう」
 どうしてだろうと、いつも不思議に思う。
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