お医者様でも草津の湯でも

 有栖川(ありすがわ)氏は常に美しい微笑を含んだ穏やかな人物である。
 その温厚篤実を絵に描いたような人柄たるや他に類を見ないであろうというほどで、彼の秀麗な眉間に皺を刻ませるのは並大抵の所業ではない。
 ……筈なのだが。
 その所業を難なくやってのける人物が、たったひとりだけいる。恐らく、現在飽和状態とまで言われる人口を抱えた世界中を探しても、彼の人しかいるまい。
 その名も一奈(たかな)彼方(かなた)
 何を隠すことがあろうか、仏の有栖川と呼ばれる彼の未来の奥方その人である。
 未来の、であって、現在の、ではない。彼らは結婚というより子を成す約束を交わした仲であるので、若干の語弊(ごへい)はあろうが、現時点では一般にいうところの恋人同士であろう。
 ところで一奈史は、唇から零れる支離滅裂な言葉からは想像もつかない、理路整然且つ清雅(せいが)な文章で綴った時代物が密かな人気を呼んでいる小説家である。
 長編を書かない上に、業界きっての速筆と誉れ高い史は、仕事が一段楽したのだということで、有栖川氏の下宿先に遊びにやって来たのだった。
 気まぐれな史の突然の訪問にも慣れている有栖川氏は、勿論一分の動揺も驚愕も見せずに史を歓迎した。
 積年の想いもそろそろ(せき)を切って(あふ)れ、抑制が効かなくなってきたこの頃である。常態において、強固な理性とそれに基づいた自制心を持ち合わせている有栖川氏であるが、その日は思わず、着のみ着のまま訪れたような史を、玄関口で抱き締めてしまった。
 そして次の瞬間、整えたばかりの寝台に史を押し込んだ。
 が、氏のその行動は、愛を交わすのが目的だったわけではない。
「……九度二分」
「……ごめん」
 (わず)かながらに、確実に怒気(どき)(はら)んでいる有栖川氏の声に、一奈史は蒲団の中で首を(すく)めた。
 普段、慍色(うんしょく)すら滅多に表わさない彼であるが故に、その表情はいっそ怜悧(れいり)で恐ろしい。
 有栖川氏は溜息をつくと、もう一度、史の額に掌を当てた。確認するまでもない非常な熱に、氏は益々眉宇(びう)を曇らせる。
「どうして家で寝てなかったの」
 知らず非難の口調になってしまう。無論、氏とて恋人が会いに来てくれたのは嬉しい。嬉しいのだが、その嬉しさの根底にある女史に対する愛おしさ故に、史の無理・無茶・無謀について、つい厳しくなってしまうのである。
 ところが、である。
 一奈史ときたら、氏の心配も馬耳東風といったところ、けろりと明快に「だって熱があるなんて気付かなかったんだもん」と言ってのけたのだ。
「頭が痛いとか、身体がだるいとか」
「ない!」
 蒲団の中で言い切った史に、氏は頭を抱えた。無理もないことであろう。三十九度以上の熱に気がつかないなど、どうかしている。
 しかし、それが史にとっての常態なのだ。基礎体力が並外れている史は、確かに丈夫であるし、そして個人の性質として、痛覚等がお世辞にも敏感とは言えないのである。
 それにしても……とは思うのだが、そう考えると、腹を立てているのも馬鹿馬鹿しくなってきてしまった。元来、不機嫌を長時間保っていられない性質である。氏は諦めたように寝台に腰掛けると、史の前髪を軽く()いてやった。
「それに、会いたかったんだもん」
「ついこの間、泊まっていったばっかりなのに?」
「……うん」
 一奈史は小さく(うなず)くと、ちらりと有栖川氏を見遣った。
「まだ怒ってる?」
 氏は苦笑した。史の小説は氏もよく知るところであるが、小説家として言葉を並べていく史と、一奈彼方として言葉を(つむ)いでいく史の像が、どうにも一致しない。
「怒ってないよ。――でも、あんまり心配させないで」
「うん。ごめんね」
 今度は少し真面目に、一奈史は答えた。
 (しばら)く沈黙が落ちる。
 氏は、林檎を摩り下ろしてあげよう、と考えていた。
「凄いよ、有栖川」
 不意に一奈史が、天井を見詰めたまま呟いた。
「うん?」
「会いたいって思う気持ちには、凄い力がある。私本当は、今日、朝起きたときから死にそうだった」
 やはり気付かなかったなど、嘘だったのではないか。とはいえ、既に非難する気はなく、有栖川氏は黙っていた。
「でも、有栖川に会いたくなって、会おうと思ったらそんなのどうでもよくなっちゃったよ」
 史ははにかむように、悪戯(いたずら)っぽく笑った。医師を目指す有栖川氏としては、 「身体を大切にしなさい」と説教のひとつも垂れてやりたい気がして、氏は照れ隠しも含めて少々の意地悪を言った。
「そんなこと繰り返してたら、今に大病を(わずら)うよ」
 だが、一奈史は横になったまま胸を張った。
「大丈夫。有栖川が治してくれる」
 それは、有栖川氏にとって、大変に強くはたらく一言であった。微塵(みじん)の揺るぎも感じさせない音の響きが、これまでの、そしてこれからの有栖川氏に対する信頼を表わしていた。
 有栖川氏と一奈史は、幼馴染みであった。共に過ごした時間は長く、それに(さいな)まれた時期もあった。けれども、雪が静かに降り積もっていくように重ねられた時が、今、目にも見えない、手に触れることも出来ないが、とてもとても稀少な宝石になっているような気がした。
「僕はまだまだ見習いだから、荷が重いよ」
「私が大丈夫って言うんだから、大丈夫。だって私、きっとこれ以上の大病なんてしない」
 史がそこまでを口にしたとき、氏は、史がこの話をどう帰結させようとしているのかを理解した。
 そして思わず、溜息に幸福な苦味を加えた微笑を雑ぜてしまった。
 それを言わんとするならば、己こそに医師が必要であるのに、と。
「どんな分野の権威でも駄目なんだ。――有栖川にしか治せないよ」
 史の声は落ち着いて静かだった。じっと天井を見詰めている史の双眸(そうぼう)に涙が(にじ)んでいるのに気付いたが、氏は、自身とそして何より史の為に、見えない振りをした。
「――僕にも無理だよ」
 史の髪から手を引いたその声は、まるで独り言のようであった。あまりにも小さかったから、史の耳には届かなかったかも知れない。だが、氏がそれを言い終わる前に、史は頭上までを覆い隠すようにして蒲団を被り、氏に背中を向けて眠った演技を始めた。
 氏はそれを見て、また、――今度は少々の困惑を込めて――笑ってしまった。




end.



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