AIR MAIL |
「ミヤビ、どうしたんだい?」
声をかけられて、我に返った。 「何でもない」 英語で答えて、 突然、どこか、どこでもいいから日本国外に出たくなって、なんとなくイギリスに飛んできてしまったのに、どうにも気分が晴れない。 頭の中では日本との時差をはじき出し、そろそろ起きる時間かしらとか、今頃ご飯の時間かなとか、もうお風呂入ったかなあとか、そんなことばかりが浮かんでは消えていく。 日曜大工が趣味の美術教師は、明るいお日さまの下で金槌を振るっている。立て付けの悪い扉を直しているらしい(どんなふうに直しているのか、雅にはわかっていない)。 「君は愛情確認が足りていないんじゃないか」 首に引っ掛けたタオルで額の汗を拭いながら、草の上に足を投げ出して座っている雅に言う。 髪にはもう白いものがまじりはじめているというのに、このひとはまるで老いを感じさせない。物凄いパワーの持ち主だ。結婚三十年目の奥さんとは相変わらずの新婚っぷりだし。 「そうかなあ〜」 「満足できていたら、きっとそんなふうに思わないよ。欲求不満があるから、そうやって思い残すのさ。そして君の場合は、多分彼ではなく君自身に問題があるんだろうな」 鋭い。 この手の問題に関しては、十中八九、博ではなく雅に問題がある。 雅はうとうとしながら、甘えるのと甘ったれるのと甘やかすのとはどう違うのだろうと考える。 博は雅をとても大切にしてくれるから、とても気遣ってくれるから。気をつけていないと、そのことにも気づかなくなってしまいそうだ。そうされることを当然だと思いたくない。 自分は、彼に依存してしまってはいないだろうか。 離れると、彼を想う。 寂しいのとは違う。ただ、彼の存在が、いつも心の片隅を占めている。 時計と生活を照らし合わせる度、どこにいても、まるで自分があの家で生活を営んでいるかのような――彼といるような、そんな錯覚に陥る。 心と身体が切り離されてしまったみたいに、心だけがあの家に帰ってしまう。 それを伝えると、 「そりゃ君、君の心の一部を彼が持っているからさ」 と、笑われた。 「だから、磁石みたいに彼に引き寄せられてしまうんだよ。きっとね。愛するものを持つ誰もがそうだ。それから自由になりたいんなら、彼に奪われた分の心を取り返さなきゃな」 「……無理だよ」 いやだ。 参った。 髪を耳にかけてくれる彼の指先が、変わらずに穏やかな声が、せつないほどに雅の身体や心に ……自分は彼を、こんなにも好きなのだ。 金槌を釘に打ちつけながら、苦笑する声が聞こえた。 「泣くくらいなら、離れなければいいじゃないか」 「それも無理」 だって、この心は、身体を連れて外に向かいたがるのだから。見たことのないものを見たいと動くのだから。 「もう、どうしよう、私……」 私はこんなに弱いのに。 自立なんて、きっとできていないのに。 思い立ったら即行動する雅は、さっくり帰国した。 バスと電車で帰るからね、と電話したのに、博はわざわざ空港まで迎えにきてくれていた。このひとはいつだってそうなのだ。 「おかえり」 静かに笑ったその表情が、擦り切れるほど思い返したものと寸分の違いもなくて、雅は泣きたくなってしまう。 「うん。会いたかった」 素直な言葉が口を突いた。 年に数度、あるかないかだ。 博は少し驚いたようだったけれど、いつもみたいに 博の運転する車内で、思ったことを順を追って説明してみる。 好きだという言葉だけを徹底的に避けてしまう性格を恨めしく思っていると、博は、 「俺のことなんて、雅が好きだと思うもの以上に想う必要なんてないんだよ」 と、ぬかした。 ――あなたがすべてではないの。 あなただけしかいらないわけじゃないの。 それでも、そんなふうに言ってくれるあなたが、私には必要なんだ。 涙を ――いっそ 博はそうさせてはくれないのだ。彼はひとに対してやさしさを惜しまず、 雅は密かに心に誓う。 今度はベルギーに行こう。チョコレートをいっぱい買ってきて、バレンタインにまとめて強制的に食わせてやる。そうして最高級の甘さを胃にもたれさせて、――私を常に悩ませているつらさと幸せを、思い知らせて噛み締めさせてやる。 end. |
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