かわいいひと

 (ひろし)のキスにうとうとと目を閉じていた(みやび)は、服の(すそ)から滑り込んできた乾いた手に、
 ――んん?
 と首を傾げた。そして、
 待て。
 待て待て。
 と、焦った。
 それは雅自身感動するほどくだらない理由と、傷がついてもたいした問題にはならない取るに足らないプライドのためだった。つまり、
 ――私、……私今日どんな下着つけてたっけ?
「ちょ……ちょっと待って博さん」
「んー?」
 あわわわわわわ。
 博のてのひらが脇腹を撫でる。博の唇が雅のそれから少しずつ移動し、首筋を()う。
「っひゃ……あ、あの……ね、ちょっと待って……」
 なんでこんな中途半端な時間に。
 雅は混乱しだした頭を何とか回転させて、思った。
 時計の針は八時四十七分を差している。本当に中途半端だ。どうしてこんなことに、と雅は必死で記憶を繋ごうとした。
 食事も終わって、ソファに並んで座って読書していた筈なのだ。雅は、宮城谷(みやぎたに)昌光(まさみつ)著『太公望(たいこうぼう)』の下巻を読んでいた。面白い。さすがだ。宮城谷先生大好きだ。
 博は確か、芥川龍之介の『鼻・芋粥』を読み直していた。結婚してから確信したことなのだが、博は一度読んだ本を何度も読み返す。しつこいくらいに読み返す。枕草子暗唱できるよ! というのが彼の実にささやかで何の役にも立たない自慢だ。しかも信憑性は希薄。信じても信じなくても毒にも薬にもならないし、博だって「じゃあ暗唱するね。はるはあけぼの……」などと言い出しはしないだろう。されても困惑するだけだ。だって雅は暗記していない。確かめようがない。
 ああそんなことどうだっていい。
 泡を喰いながら、雅は大分傾いてソファと水平になりつつある身体を支えた。これ以上倒れたら、本当にマズい。
「お、お風呂入ってくるから……っ」
 なんとか博の身体を押し返そうとするのだが、博は雅の抵抗などものともしない。
 ああこの馬鹿力っ。
 学生時代から続けて今なお現役、最低でも週に一度のペースで弓道場に足を運んでいるだけのことはある。弓道を(たしな)んでいるだけあって、博は腕の力が滅法(めっぽう)強い。スポーツらしいスポーツなど何もしたことのない雅の非力な腕など、簡単に押さえ込まれてしまう。
 不意に、ひょこんと顔を覗き込まれた。
「したくない?」
 時々思うのだが、こいつ絶対自分の魅力を知っている。雅のツボを心得ていると言った方が正しいかもしれない。
 ――お散歩をねだるわんこのような目で見るなかわいいだろうが!
「……っあー……そういうんじゃなくて」
 したくないと言うより難しい。
 待て待てと繰り返す雅を、博はやっぱり覗き込む。鳶色の瞳は相変わらずやさしくて、思わずじっと見入ってしまった自分に照れた。
「なんというかですね」
 自分で自分にびっくりだ。
 知らなかった。こんな自分がいたんだ。
 本当に感動するくらいくだらない。真剣な冗談みたいに馬鹿馬鹿しくて笑えない。
 博は、うん? と雅の言葉の続きを促す。顔が赤いのがわかった。いつの間にか視界に入っているのは博の顔と天井だ。雅は赤い顔のまま(うつむ)くと、あのねと呟いた。
「あの……ね、今日、下着可愛くないから……なん、て、」
 ね。
 おずおずと博を見上げる。
 正しく言うと、どんなものだったのか覚えていない。しかしなんだか、まるで恋人同士のような会話ではないか。ナルホドこれこそダーリンとハニーの会話、私だってやればできる!
 と照れ隠しに思ってみるも撃沈。キャラクターが違う。それも絶望的に。
 博は、はあと目を丸くした。そして、
「かわいいっ」
「ぐっは!」
 どすこいッとばかりに突っ込んでくる旦那様。ボディブローの如き勢いよすぎる抱擁に思いきり身体を締めつけられ、愛されている奥様は()(かえ)りながらじたばたと全身で抗議した。
「この馬鹿殺す気か! 苦しい!」
「かわいいよみーさんッ」
「いいから力緩めてほんとに死んじゃう!」
「みーさんからそんな台詞(せりふ)が聞けるなんて……生きててよかった……! 明日は福沢諭吉が降るかもしれない!」
 目をきらきらさせてうっとりしているこのひとは、感動しているのか喧嘩(けんか)売ってるのかはたしてどっちだ。生きててよかったって、大袈裟(おおげさ)なのか安上がりなのかはたしてどっちだ。
 ぎゅうぎゅう抱き締めてくる腕を()()なくふり払い、雅は深い息をつく。なんか疲れた。
「それはいいね。底のあるものをすべて屋外に出して降雪(こうせつ)ならぬ降札(こうさつ)を待とう」
 恥ずかしい。
 正直に言うんじゃなかったと雅は後悔する。恥ずかしい。耐えきれなくなって顔を(そむ)けると、博は悪びれる様子もなく、あははと笑った。
「かわいい。照れてるの」
「ほっといて……!」
「だいじょーぶだよ。どーせ全部脱いじゃうから」
 にこにこ笑っている。心底楽しそうなその笑顔に、雅は面白くなさそうに「そういう問題じゃないのよこれは女の沽券(こけん)に関わるのよ多分きっと恐らくもしかしたら」と不貞腐(ふてくさ)れた。
 ほんとうに、博のこういう真っ直ぐで裏も表もない笑顔には、参る。しかも無意識だから手に負えない。
 不機嫌をつくって見せながら、雅は今までとは別の意味で染まっていく頬を、どうやって隠そうなどと考えてしまう。
 博は知っているのだろうか。
 知らないでいてほしい。
 はじめて会ったときもそう思った。博の笑顔を見る度に、もちろん今でも、思う。
 博は綺麗に笑う。嘘がないからだろう。(まが)(もの)ではないから、厭味(いやみ)がないのだ。雅の心に、綺麗なものとして認識される。
 ……参ってしまう。
「みーさんでもそういうこと気にするんだね。知らなかったな。かわいい」
 照れる素振りも見せずにかわいいと言う。そんなふうに褒められたことなんてほとんどないから、どんなふうに対処したらいいのかわからない。嬉しいような気もするが、馬鹿にされているような気もする。それでも複雑な思いで(うな)るように謝辞を述べると、性懲(しょうこ)りもなく博の手が服の中に侵入してきた。
「……博さん話聞いてなかった?」
「みーさんこそ俺の話聞いてた? 全部脱いじゃうんだから」
「コノヤロウ……」
 博は手際よく雅の服の(ぼたん)を外していく。しかも軽く鼻歌まじりで。しかも歌はハメハメハ大王ですか。どんなセンスだ。コノヤロウ、と思い、一発くらいはたいてやってもいいかな、と目論(もくろ)んでいたら、(つい)ばむように頬にキスされ、はじめからやり直すように唇に戻ってきた。
「んー、ん……」
 ぱらりとシャツが肩から落ちる。と、博が不満そうな声を上げた。
「なんでキャミソールなんて着てるかな」
 白いキャミソール、ブラジャーは淡いピンクだった。ああこれかと雅は息をつき、
「だってブラの上に直接服って嫌なの」
 溜息まじりに答えた。博はキャミソールの裾を両手で持って、
「ハイばんざーい!」
 全開の笑顔で言う。
「ばんざーい……」
 なんでこんなに楽しそうなんだこのひと。
 既に疲れつつ少し腕を上げると、キャミソールをすぽんと脱がされてしまった。ついでにスカートも取られてしまう。それでもって、下着姿になった雅は博に奇妙で間抜けな真剣さで眺められた。
「博さんデリカシーを身につけてくれる? 今。すぐに」
「かわいくないって、そうかなあ?」
「ひとの話を聞け。男にはわかんないよこの気持ちは……女ってなんでか、誰に見せるわけでもなく下着もかわいいのがいいの」
 とかなんとか言う雅は、どちらかといえば機能性重視なのだが。肌触りがよくてかゆくならなくて。
 博は上機嫌に胸にキスを落としていく。
「女の子ってそういう――心構えっていうのかな、心遣いがそのひとをかわいく見せるんだろうね」
「うん――ああ、そうかな。そうかも。……なるほど……」
 だから私はかわいくないのかな。
 白くぼやけはじめた思考の片隅で思った。
 雅はかわいくないことを自覚していて、実際にかわいくないと言われたりもした。それが外見のことならば何も気にすることなどなかったけれど、思考回路を言われているのだと知っているから、それなりに傷ついたりもしてきたのだ。
「博さん、私のどこが好きなの……?」
 不思議だった。
 雅は博をとても好きだけれど。雅が博から貰っている、贈り物のようなやさしい感情の数々を、(ある)いはそれに類するものを、博は雅に見出してくれているのだろうか。
「全部」
 即答された。
誤魔化(ごまか)してる」
 が、一言(いちごん)のもとに斬り捨てる。博は苦笑した。
「本気なんだけどなあ。うんん。じゃあ、そうだな……」
 どこが、とか。どうして、ではなくて。
 俺は、雅がいつも雅なら、それでいい。
「俺がいなくても平気で、自分を馬鹿に見せないところ……かな」
「何?」
 博は小さく笑った。上気してきた雅の頬に、ふとくちづける。
「レンアイとかなんとか、そういうことで頭がいっぱいだったり、会いたい構ってって言ってくる子は確かにかわいいんだけど、俺は物足りないからね」
「……? 私のかわいくないとこが好きなの?」
 博が指を滑らせると、雅は息を呑むように喉の奥でくぐもった声を上げた。震える溜息をついて、時折小さく身体を痙攣(けいれん)させる。
「かわいくないとこがかわいいとこも好き」
 (ささや)くように告げると、雅はぼんやりと潤んだ瞳を(またた)かせて、
「変なひと」
 ふふ、と子どものように無邪気に笑った。





end.



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