ラヴソング・オブ・ラヴソングス

 人生は発見の連続で、驚きに満ちている。
 多分それが唯一の、(ひろし)(みやび)が完全に共有している人生観だ。



 雅の意志の強さは驚嘆に(あたい)する。
 形振(なりふ)り構わなくなるほどのものを持ったことのない博は、尊敬もする。そういう、自分自身を見失ってしまうほどの感情を傾けるものが出来たと仮定したとき、博は、何も訊かない、手を出さないということを通せるかどうか、自信がない。
 雅はすごい。
 踏み込ませないと決意した領域には、誰の侵入も許さない。踏み込まないと誓った領域には、どんな誘惑にも耐えて入らない。彼女は、何もしないでいる、ということが、時としてとても尊く、また重要であることを知っている。彼女は偉大だ。そしてやさしい。雅は偽ってひとと付き合うことをしない。いつだって真正面から、たとえ取り返しのつかない喧嘩(けんか)をしても、自分が傷つくことを避けない。彼女の生き方そのものだ。雅は逃げない。真っ向勝負を挑み続ける。彼女の前では、闘わない人間は価値を持たない。雅は純粋で気高(けだか)い。時折本気で触れられない。博は参る。



 ソファに膝を抱えて座った姉は、疲弊(ひへい)していた。小鞠(こまり)()れてあげたココアのマグカップを、ばかみたいに大切そうに両手に包んで、呆然と窓の外を眺めている。頼りなく落とされた両肩、縮こまった細い脚、光を失った瞳。
 小鞠は雅を自慢に思っている。彼女は小鞠の誇りだ。雅は聡明でやさしく、努力家だ。そして強い。気の毒に思うくらい強い。泣きながらでも食事をし、傷ついても立ち直り、悩んでいても睡眠を取る。雅がそれらのことを、並々ならぬ努力で()って為していることは、最近知った。彼女はいつだって、自身と周囲の人間に誠実であろうとし続ける。
柘植(つげ)さんは、強いわ」
 ぽつりと、雅が呟いた。言葉は深夜の静寂に落ち、時間はそれでも流れていた。
「大らかで、寛大で、楽天的で。すごく、やさしいの。きっと誰も、彼を傷つけたりはできない。私がどんなにひどいことを言っても、何度理不尽に怒っても、あのひとは全部許してくれる。誰かを無条件に許すことを、――認めて、受け入れることを、(いと)わないし面倒くさがらないの。笑って私に触れるの。――好きだって言うの」
 黒い、長い(まつげ)(しずく)が宿っていた。
 小鞠は雅を誰よりも、――ふたりの父や母よりも尊敬していて、愛していたけれど、彼女を理解することはできなかった。
 雅は嘘をつく度、ひどく傷ついた。ひとと交われば当然生まれる誤解や齟齬(そご)に苦しんだ。彼女はそれらを些細(ささい)なこととして忘れることができず、ひとつずつ取り上げては懊悩(おうのう)し、自身の(あやま)ちを悔い、けれど誰も呪えずにいた。
 エネルギーは雅の体内で荒れ狂い、毒は消えず、刃はいつも(ひらめ)いた。
滅茶苦茶(めちゃくちゃ)で、真っ直ぐで、あざやかで」
 すん、と雅は小さく鼻を鳴らした。恋はこんなにも苦しいものだったろうかと小鞠は哀しくなった。雅は博を本当に好きだ。見ていればわかる。そうでなければ、きっとこんなに傷つかない。彼の前で、雅はひどく無防備だ。
「――こころが、きれいなんだわ」
 愛情だけでは解決しない問題もあった。いくら時間が流れても埋まらない溝はあった。癒えない傷も、消えない傷痕も、哀しいけれど確かに存在した。
 黒い瞳にいっぱいに涙を溜めて、雅は静かに結論づけた。恐らくそれが、雅にとっての博を表わすすべてだった。



 グラスの底に蜜色の液体がとろとろと輝いて、明日は休みで、なかなか悪くない、と思う。
「彼女にバカって言われるのは、困ったことに、結構好きだ」
 バカ。うん、バカか、端的に俺を表現し得る素晴らしい単語だ、ナイス、そしてグレイト。と独りごちて、博は笑った。
「酔ってるの?」
 有珠(ありす)は尋ねる。
「少しね」
 博は穏やかに答えた。
 少し付き合ってみると、雅が超一級の癇癪(かんしゃく)持ちであること、でもそれを抑制する努力をしていること、プライドが高いことや意地っ張りで頑固で頭がよくて、無表情で辛辣(しんらつ)厭味(いやみ)を次々と並べる毒舌家であること、そのくせ『超絶』がつくお人好しでさらに涙脆(なみだもろ)いことがわりとすぐにわかった。口にすることは(ひね)くれているが、根はひどく素直で善良だ。きっとサプライズパーティーなんかに滅法(めっぽう)弱い。
 かわいいなあ、と掛け値なしに思う。笑みが(こぼ)れる。普段は過ぎるくらいに冷静だけれど、図星を指されたりして真っ赤になってわたわたしているところなんかは、本当にかわいい。
「へへ」
「何」
「かわいいなあ」
「……僕は君を愚かだと思ったことは今まで一度たりともなかったんだけれど――どうやら思い過ごしだったみたいだね。鏡を見てみるといい。今まさにものすごく馬鹿な顔をしているよ。緩みきっていて直視できない」
「うん、バカ、か」
 有珠曰くの緩みきった表情のまま、博は少し酔いの回った頭でぼんやり考え、ほんのりと眠くなってきた(まぶた)をうっとりと閉じて、言った。
「みーさんに言われたいなあ。無表情に冷たくばっさり思いっきり、馬鹿は消えろ、って」
「……」
 有珠は、その端正な面に遠慮なく呆れの色を浮かべ、コメントした。
「被虐趣味があるとは知らなかったよ」



「俺は尊敬と愛情を君に誓うよ。で、俺は君の行動を束縛するつもりはまったくない。でも一意見として聞いてほしい」
 なあに、とスプーンを(くわ)えている雅に、博は深い溜息と共に『一意見』を提示した。
「個人的には、ジャムは瓶から直接スプーンで(すく)って食べるものじゃないと思う」



「料理の腕には結構自信がある。君は見たところ食事に楽しみを見出(みいだ)すタイプのようだから、これはなかなか高得点を与えられるべきポイントのように思うんだけど、どうかな」
 黙々と着物の虫干しを続ける雅の後ろで、博はなんだかわけのわからないセールスを飽かず続けている――そしてその売込みを受けているのは、どうやら自分らしい、と雅は仕方なく認めた。
「どうかな、って何」
 襟元にぽつぽつと浮いた染みを見つけて、雅はああと溜息をつく。気をつけているつもりでも、やはりあまり袖を通さないものは、知らないうちに知らない汚れが浮いていたりする。洗い張りに出さなきゃ、と思いながら、ふり向きもせずに尋ねた。
「みーさんにごはんを作ってあげられる!」
 ああ、と雅は別の意味で再び溜息をつく。ふり向かなくても、今、博がどんな表情をしているのかが(いや)というほどよくわかった。
「ご親切にどうも、柘植さん。でも自分の食事くらい自分で作るよ」
「不幸にして風邪をひいたら? それも、今世紀最大にして最悪と表すべき凶悪なやつだ。どうする?」
「そんな風邪をひいたら間違いなく入院してるだろうな。よって食事の心配はいらない」
「じゃ、不眠不休の仕事明けは? 疲れて何もしたくない。どうするの?」
「寝る。食事するどころじゃない」
「起きたとき、すっごくおなかがすいてた。でも疲れは残ってる。どうするの」
「出前をとる」
「盆暮れ正月クリスマスは混み合ってるよ。配達に二、三時間かかる場合だってあるかもしれない。でもすっごくおなかはすいてて、すぐにでも食べたい。さあどうする!」
「そうしたら、そうね、」
()んだね」
 背後で得意げに、博が胸を張った。――見ていないが、絶対、そうした。
「やっぱり俺は便利でしょ? 君より背が高いから手の届かないところにある荷物だって取ってあげられるし、力もそれなりにあるから模様替えの際にも貢献できる。掃除も好きだし話題もそれ相応には持ってるから飽きが来ない。何よりみーさんに対して(あふ)れんばかりの愛情を持ってる。俺と一緒にいたら、みーさんは多大なる利益を手にすることができるよ。自分で言うのもなんだけど、パーフェクトだ」
 パーフェクトにバカだよアナタは。
 と雅はなんとも形容しがたく思った。
「うーん。それでも、だめ?」
 雅の隣に(かが)()み、博が顔を覗き込んでくる。濃い茶の癖っ毛がやわらかく揺れて、鳶色(とびいろ)双眸(そうぼう)が雅を真っ直ぐに映し込んだ。
 こういうときの博は、嫌いではない。
 むしろ、はっきり好きだ。引き綱を咥えて、飼い主を散歩に誘うときの犬みたいだ、と思う。雅はまた、もう何度目になるかもわからない溜息をついた。
「溜息はしあわせを逃がしちゃうよ」
 あっと気づいた調子で(たしな)められる。誰のせいだよと思いながら、雅はまた箪笥(たんす)から着物を取り出し、広げて汚れを確認する。これはどうやらプロポーズらしい、と雅も薄々ながら勘付いている、一応は。
「あのさ」
「はい、何?」
「私、結婚するつもりはないの、ってもう三回くらい言ったような気がするんだけど、あれは夢の中の出来事だったの?」
「いやいや、まさか!」
 ここにきてやっと雅は博を視界に入れた。それが博には嬉しいらしく、にっこりと笑う。
「現実だよ。確かに俺は既に三回、プロポーズを断られてる」
「……何かの冗談?」
 雅は思いきり眉を寄せた。この男は時折、雅の予想や想像の範疇(はんちゅう)を軽く一足飛びに越えてしまう。
 博は「まさか!」と元気よく繰り返した。
「本気だよ。もちろん。諦めてないだけ。――あ、そうだ!」
 閃いたよみーさん、と博は至極(しごく)嬉しそうに膝を打った。雅は物凄く嫌な予感に駆られる。そしてそれは見事的中した。
「お嫁に来るのが嫌だっていうんなら、俺がみーさんのところへ嫁に入るよ!」
 我ながら素晴らしい名案だこれならどうですか、ときらきらした目で雅を見てくる。正気の沙汰(さた)とは思えない。着物を広げた格好のまま、雅は固まった。数秒後なんとか解凍されて、眉間を指先で押さえて揉んだ。
「……私、あなたと話してると時々彼岸(ひがん)に辿り着けそうな深刻な頭痛がしてくる……」
 おや、と博はきょとんとした。
「それは大変だね。俺に何かできることはある?」
「ああ、うん――そうね」
 確信した。今まで何度も何度もそれを口にしてきたが、今ほど切実に感じたことはない。間違いなかった。
 博はバカだ。
「取り敢えず、黙っていてくれる?」



「上と下、どっちがいい?」
「真ん中」
 笑顔で尋ねた博に、雅も極上の笑顔で答えた。博はいたく満足する。雅のそういうセンスは大好きだ。



 博の手はきれいだ。
 指が長くて、爪がきちんと整えられている。少し筋っぽい。さらに博はひとに触れることを躊躇(ためら)わない。会話のちょっとした拍子に髪を撫で、肩を叩き、頬をつつく。雅は結構本気で困ってしまう。溶けそうで駄目だ。あの手に触れられているかと思うと、めためたになってしまう。



 紅茶に砂糖をふたつ。
 博が丁寧に磨いてくれるおかげで一点の曇りもない銀のスプーンで、くるくると掻き混ぜる。静かな部屋に、カップとスプーンの触れ合う硬質の音がちりちりと響いた。小さな鈴がぶつかり合うような。ティンカー・ベルの羽音。
「私、夢も幻も見ないからね。寝ても()めても」
 と言うと、博は笑った。雅は、博が自身を美しい夢を見るひとだと思っていることを知っている。が、それが事実かどうかは雅には到底知り得ない。自分自身、は、常に謎の中心にある。
「でも、たとえば、」
 博は話題の転換を図った。彼の手の中には砂糖もクリームも入っていない、雅にとっては苦いだけのコーヒーが揺れている。眠れないと言って起き出してきたくせにコーヒーを入れるなど、彼は眠る気があるのだろうか。
 カップの中の黒い液体が、白い照明にさらりと照っていた。
「自分ではどうにもならないことに直面したとき――自分の無力を痛感したときに、(すが)る対象が何もないのは、つらくない?」
 雅は息を呑む。彼は本当は、とても厳しい。
 それは、核心を、突いていた。
 本質に切り込んできた。ひとかけらの容赦もなく。雅は一瞬にして追い詰められ、打ちのめされた。
 彼女は退くことも進むこともままならず、言葉を探す。逃げ場などはじめから、どこにもありはしない。
「それは、あなたがつらいと感じるから?」
「そう――そうだね」
「何か信仰を?」
「いいえ」
「では」
 雅は退くことも、進むこともままならない。
「都合のいいときにだけ神様の名前を呼ぶことに、罪悪感は?」
 カップをテーブルに置き、頬杖をつく。真相、否、深層を隠匿(いんとく)するためのオブラート。彼は再び笑う。その笑みに(わず)かながらに困惑が(にじ)んでいたことに、雅の胸は深く(えぐ)られた。なのに胸を見てみても、傷はどこにもなく、血の(あと)もない。痛みだけが、ただ在る。ああ、本当に、彼の言葉が、彼だけが、私を決定的に傷つける。いつも。彼は恐らく、それを知らない。
 雅は目を閉じた。深い呼吸を一度し、ゆっくりと目を開く。モラトリアムは永遠ではない。
「昔はそういうものだと思ってた。――でも、そうだね」
 彼も頬杖をつく。なんのためにか。
「今は、少し」
 彼女は無言で眼を()らした。
 退くことも、進むこともままならない。
 雅にはふたつから選択するという余地すら与えられていない。



「会いたいひとは?」
 髪を撫でようか。肩を抱こうか。額にキスを落とそうか。
 慰め方は幾通りも存在し、けれど博はどの選択肢も切り捨てた。そして代わりに出たのが、「会いたいひとは?」。雅は思いがけない言葉に戸惑ったのか、心持ち瞼を上げて、考え込むように(あご)に細い指を添えた。
「……サンタクロース」
 やがてぽつりと答える。雅は何だかんだと言いながら、博をとても大切にしてくれる。
「会って、お礼を言いたいの。毎年欠かさず来てくれたから。それから、――できることなら、どんな簡単なことでもいい、何かひとつ、お仕事を手伝わせて貰いたい」
 離れている方が大切に思える、と雅は言った。
 近くにいて傷つけるより、遠く離れて幸福を願っていたい、とも言った。
 雅は感情の絶対量が多く、ひとを深く愛し過ぎる。ひどく不器用だった。とても愛おしいと感じた。



 私はとても捻くれてる。自覚してる。でもすごく夢見がちなの。
 私はどういうわけだか、ひとは受けたやさしさや思いやりを決して忘れないと信じてる。理由はわからない。ただ、信じてる。貯金箱のようなものだって思ってる。蓄積されたやさしさは、それを必要とし、求めるひとに分け与えられる。そういうとき、ひとは、損得勘定を抜きにして、惜しむことなくそれらを降らす。親切は繋がっていく。奇跡は起こる。魔法は存在する。愛はすべてを解き放つ。



 不思議に、穏やかな、抱擁だった。
 はじめて触れた雅の肌は絹みたいに滑らかで、白くて、やわらかかった。信じられないほどの甘さに驚いた。博は戸惑った。
 雅は博の腕の中で、声も立てず、静かに泣いた。
 細かな滴がぱらぱらと彼女の長い睫に弾け、頬を伝い零れた。海の底のような静謐(せいひつ)に彩られた涙だった。人魚の涙みたいだと思った。その、涙の意味を、博は知らない。恐らく、これから先も知ることはない。
 ただ、()けていく夜の音や、シーツの波や、雅の左肩にある小さな古い傷があまりにも鮮烈で、言葉を失った。



 目が醒めて、真ん前に博の顔があることに、雅は本気で驚いた。のろのろと意識がはっきりしてくると、驚いた自分にまた驚いた。どうして今さら驚くのだろう。なんだか、はじめて一緒のベッドで眠り、目覚めた朝みたいに思ってしまったのだった。
 雅が博より先に起きるのは珍しい。カーテンに遮られた外はまだ薄暗かった。部屋は冷えきってしまっていて、雅はそろそろと博に身を寄せた。
 遠くで、雄鶏の鳴く声が聞こえた。夜明けは近いらしい。
「……ぅん?」
「あ」
 肩に、ふわ、と手が触れた。
「お、は、よう」
 わけもなく照れる。躊躇いがちに言うと、
「うん……おはよ。早いね……」
 半分以上夢の中にいる声で返事がきた。そのくせ、ちゃっかり雅の背中に腕を回してきたりする。油断できない。
「あー……そうだ。夢見たよ。みーさんの」
「へえ」
 どんな? と聞き返す芸当は、雅は持ち合わせていない。慣れて久しい博は勝手に続ける。
「妊娠してた。おなかおっきくて、裸足で縁側に座って日向ぼっこしてた」
「……未来かな」
 呟いて、想像してみた。なんだか果てしない可能性の物語だった。
「どうかな――」
「男の子だったらヒロシってつけよっと」
「はい?」
 博ははっきりした声を出した。突拍子(とっぴょうし)もない台詞(せりふ)に一気に覚醒する。胸にくっついている雅を引き剥がして、まじまじと見つめた。
「大丈夫、漢字違いにするから。普段はジュニアって呼べば区別はつくでしょ」
「俺がまさに医院内でジュニアって呼ばれてるんだけど……いや、でも、待って。それはちょっと、なんというかあまりにも、その」
「何よ気に入らないの? 我儘(わがまま)ね」
 我儘なのかこれは、という思いが()ぎったが、黙った。雅は真面目な顔をして考え込んでいる。博はこのあたりの雅のセンスはよくわからない。
「よし。わかった、じゃ男の子でも女の子でもいいように、ヒロムにしよう。これなら文句なしね。ね?」
「ヒロムって男名前じゃない?」
「別にかまわないでしょう。元気に育つよきっと」
 あっさりとしたものだ。確かに、身体の弱い男の子は女の子として育てると丈夫に育つ――との言い伝えはあるが、逆はどうなのだろう。博は聞いたことがないのだが、これも黙っておいた。何故かは知らないが、雅の機嫌はいいようだし。
「漢字はどうしようかな」
 と雅が言ったので、
「弘。弓にムの。弘済(こうさい)弘毅(こうき)(コウ)
 と咄嗟(とっさ)に言った。
 何故だろう。
 口を突いて出た。
「意志の強い、ひとにやさしい子になるように」
 ひとに、やさしい。
 雅はひろむ、弘か、と何度か口の中で繰り返して、「うん、いい名前だわ」とにっこりした。博は目を細める。雅は本当に幸福そうに微笑む。
「男の子と女の子、どっちがいい?」
 尋ねると、雅は笑った。
「どっちだっていいよ。どうせメロメロになることに変わりはないもの」
 博も笑った。まったくその通りだと思った。「ああでもまだもう少し待ってね、今妊娠するとでっかいおなかを抱えてヨーロッパを巡ることになってしまうわ――それはちょっと大変すぎる、気がする」と雅は唸った。博はその額に小さなキスを落とした。
「今日はお祝いだから、鍋だよ」
 覚えてる?
 苦笑して博が問うのを聞きながら、雅は微笑したまま目を閉じた。
「覚えてる。鶏団子の入ったお鍋がいいな」
 あとでお買い物に行こう、と雅は言った。ベッドの中は夢みたいなぬくもりを持ってやわらかく、博の身体は寝起き特有のぼやけたあたたかさが残っていて、なかなか悪くはない感触だった。
「今後ともよろしく」
 好きだでも愛してるでもなく、今後ともよろしくなどという暮れの挨拶のような台詞をぬかす博は、雅の性格をよく把握している。だから雅は二度寝の体勢を取ったまま、毛布の中で手を差し出し、博に握手を求めた。





end.



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