奇跡が生まれる日

 何万光年もの彼方の星々が、硝子(がらす)のように揺れている。それぞれが小さな宝石のように(さや)かにきらめいて、冬の空を静かに彩っていた。どんなに素晴らしいクリスマスツリーも、この夜空には敵わないだろうと、雅はとろりと甘い酒に満ちたグラスを傾けながら思う。
 気温は低い。
 この地域は比較的温暖で、気温だけ見れば常春の気候なのだが、如何(いかん)せん風が強い。日本でも屈指の強風地帯であるため、吹きつける風のせいで体感気温はかなり低く、だから結構寒い。それでも雅は、パジャマに気に入りの半纏(はんてん)を着ただけの格好で二階のベランダから夜空を見上げていた。細く息を吐けば、たちまち白く凍りつく。
 空は晴れていた。
「ハッピークリスマス。乾杯」
 手に持ったグラスを少し掲げ、雅は呟く。
 破璃(はり)のように鋭く澄みきった大気に、月は真珠のように輝いていた。美しい夜だ。寒いのは苦手だが、冬の夜は好きだった。早朝も同様に。世界中がぴんと張り詰め、緊張しているようで、その分余計なものが一切排除されているかのように清浄に思えた。
 背後で、からりと引き戸を開ける音がする。それからすぐに、肩にふわりと毛布がかかった。雅は小さく、くすりと笑う。
「風邪ひくよ」
 幾分低い、(ささや)くような声で言ったのは、博だった。
「ありがと」
 隣に並んだ博に、雅は視線を月に留めたまま(こた)える。
「ひーちゃんは?」
「もう夢の中」
「そっか。ちゃんとサンタさんしてきてくれた?」
 もちろん、と答えが返ってきて、雅はふっくりと笑みを深めた。
 サンタクロースの存在を教えるのはお母さんの役目、枕もとにプレゼントを置くのはお父さんの役目。――プレゼントに、信頼と幸福という名の魔法をかけるのがサンタクロースの役目。
「いいね。ありがと。メリークリスマス」
「うん。メリークリスマス。――綺麗だね」
「うん。最高。寒いけど」
 空を見上げ、博がぽつりと言うのに、雅は短く返す。
 本当に、このひととの間では、余計な言葉は要らない。
 思って、雅はしんとした、喜びに似た感情を覚えた。
「飲む?」
 やっと博の方を見て、グラスを差し出した。
「じゃ、ひとくちだけ」
 博のあたたかく少し乾いた手がグラスを受け取り、月に向かって「乾杯」と言った。その仕草に、雅は満足する。博は本当にひとくちだけ飲み、グラスを雅に返した。
「甘いね」
「ん。今日はそういう気分なの」
「甘い気分?」
「そう。少しね」
 雅は穏やかに微笑んだ。吹き過ぎる風は冷たい。頬がぴりぴりと痛むほど。雅は毛布を胸もとで掻き合わせる。
 空は深い闇色。
 そこに散らばる星座たち。
 耳鳴りを誘発する静寂。(きよ)らな静謐(せいひつ)。まるで世界中にふたりきりのような錯覚。
「もうひとくち、飲む?」
 言って、雅は自分でグラスを傾けた。博はすぐに理解して、雅の身体を引き寄せ、そっと唇を重ねた。そうしてしばらく、博は雅のやわらかな唇と体温、甘い酒を味わった。唇を離しても、ふたりとも離れる気が起きなくて、抱き合ったままくすくす笑う。お互いの体温がやんわりと伝わってくる。寒空の下、けれどここはなんてあたたかいのだろう。雅は博の胸に、ささやかに頬を摺り寄せた。微かに鼓動が感じられる。雅は目を閉じる。
 傷つけて。
 傷ついて。
 雅は相変わらず博のやさしさが痛いときがあって、それは本当に苦しい。そうして苦しむ雅に、博は触れられない。雅はそれを知っている。雅が傷ついている分だけ、博も傷ついている。
 それでも雅はここにいる。
 博と共に、在る。
 そのことに迷いはない。後悔もない。博が自分を選んでくれたことが、自分が博と共に在ることを選択したことは、雅にとって誇らしい。確かに痛みは伴うけれど、かけがえのない現実であり、事実であり、真実だ。
 想い、想われる、その確率は一体どれほどのものなのだろう。
 不意に、胸が痛んだ。眼の奥が熱い。
 涙が(にじ)んだ。
「痛いの?」
 耳もとで、博が囁く。ぎゅっと抱き締めてくれる。
 痛いよ。
 胸が痛い。
 ああ、どうして、こんなにも、私は。
「変わらないものなんてきっとないのに、――こういうのを、奇跡っていうの?」
 傷つけて。
 傷ついて。
 胸が痛いほど、幸福で。
 言葉は追いつかなくて、涙が(あふ)れるほど、こんなに大切な気持ちがあって。
 博は黙って、雅を抱き締めた。当人たちは知る(よし)もなかったけれど、抱いている感情は、想いは、酷似していた。それを知る術など、誰も持っていない。それでも、信じる、ということを、博はなんの疑いもなく実行出来た。出会ってからこれまで、雅はいつでも清廉(せいれん)だったから。
 ――言っても、いいだろうか。
 だって博は、他に言葉を知らない。
 けれど、この想いを、――もう、心の中だけに閉じ込めておくことなど、できそうにないから。
 溢れてくるから。
 だから。
 言ってもいいだろうか。気持ちは伝わるだろうか。この言葉は、雅の中にある奇跡を表し得るものだろうか。
 一呼吸置いて、考える。胸が痛い。こんなにも愛おしい。
 雅。
 博にとって、たったひとりのひと。
 今まで決して言葉にはするまいと思っていた。
「……愛してるよ」
 (こら)えきれずに、博は呟くように言った。腕の中で、雅が震えた。博のセーターをぎゅっと掴む。その白い手を、博はそっとてのひらで包み込んだ。
 雅は声もなく、泣いているのだった。
 ――これを、奇跡というのだろうか。
 博は雅を抱き締める。
 こんなにも愛おしい。
 こんなにも。





end.



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