業の花びら

 ほろほろと春の陽の降る。
 ひらひらと桜の花の舞う。
 空は澄み渡って青い。風は時折緩く吹く、大気はどこか(りん)とした冷たさをほんの少し残しながらも、肌にやわらかい。頬がぬくもるのがわかる。
 (うぐいす)の声すらも聞こえない。
 薄紅(うすくれない)の、まるで(みやび)の小指の爪のような花弁(かべん)がひとひら、風とひととき戯れて、小さな(さかずき)の中に波紋を広げた。
 雅が手にした(はい)だ。
 漆塗りの一級品。内側は鮮血を流したように赤く、外側は墨よりも黒く春陽に照り映えている。
 満たされた清酒に浮かんだ桜の花びら。
 (ひろし)は雅の白魚(しらうお)のような手と、対比の黒赤の杯、その中の小さな桜色を眺めながら、本当にこんなことがあるんだ、と思った。
花見の折、手にした杯に桜の花弁が舞い落ちるとは昔からよく描かれた光景だが、現実に見たのははじめてだった。実際、難しいだろう。風に舞う花びらはこんなにもあるのに、てんでばらばらに散る。
 それが美しいのだろう。
 だから美しいのだろう。
 雅は六分咲きの桜の下に腰を下ろして、先程から無言で花見酒だ。博は隣に、後ろに両手をついて体重を預け、足を半ば投げ出して、酒を飲むでもなく座っている。というか、杯がない。
 休診日の昼下がり、自宅の縁側でふたり並んで仲良くく日向ぼっこをしていたのだが、雅は突然立ち上がって部屋の奥へと消えていった。
 ああこれはあれだな、と思った。
 既に慣れた博は特に気に留めない。よくあることだ。だって見るがいい、今日のこの快晴を。世界と人生を讃え、(はい)を高く掲げたくもなるだろう。
 ふ、と博が笑みを(こぼ)すのと、隠していたらしい一升瓶と特別の日にしか使わない塗りの杯を持った雅が花見宣言をしたのは、ほぼ同時だった。
 雅はそれだけ持って家を出た。博もなんとなく後に続いた。お互い不機嫌なわけではない。言葉が少ないのは、今はそれでいいからだ。千の言葉よりも雄弁な無言を、博は雅に教わった。
 狭く薄暗い裏路地をすいすい抜けて辿り着いたのは、一本桜の見事な明るい場所だった。山裾だ。見上げれば山が(わら)っている。ほんのりと(くれない)に染まって。
 こんな場所、知らなかった。
 見渡せば民家もない。ひとの気配もない。音も。空と風があるだけだ。
 雅の縄張りなのだろう。
 よくもついてくるのを許してくれたものだと、博は思う。
 こんなに、清浄で。
 澄みきって美しく、音の侵入すら許さず、……こんなにも、哀しい場所に。
 雅は何も敷かず、木の根元に腰を落ち着けた。とても自然に。
 それで博は知ったのだ。
 ここの主は、少なくとも今は、雅なのだと。
 博は立ったまま、桜の根元に座す沈黙の主を見つめた。主の許しなしに、客の身分が腰を下ろすわけにはいかない。
 透明な空に、孤独な六分咲きの桜。雅はまるでずっと前から今日の日を決めていたかのように、鶯色の着物を着ている。しっとりと()羽色(ばいろ)の髪が、やわく光る。
 雅が、ちょいと手招きした。緩やかに曲線を描く指。本当に人間なのだろうか。どこまでも孤独な、透明なひと。
 座って、と手の仕草で促され、博は従った。
 それからずっと、ふたりとも何も言わないまま、花びらが散り()くのを見ていた。
 六分の咲きでも花は散る。
 なんて儚いのだろう。
 時折、虹を宿した貝の裏側のように、嘘みたいにきらめく。
「ねえ、博さん」
 はじめて、音が生まれた。
「知ってる? 散っている桜の花びらをね、地面に落ちる前にてのひらで掴むと、お願い事が叶うんだって」
 他に、何もない場所で。
 雅は(さかずき)の中で揺れるひとひらを見詰つたまま、静かに言う。くちもとに、散る花びらとよく似た儚い美しい微笑を(たた)えて。
 まるで独り言のように。
「……難しそうだ」
 博が言うと、雅はくすりと笑った。
「そんなに簡単にお願い事は叶わないってことでしょうね。簡単な願掛けなんてないもの」
 ああ、そんなふうに。
 さみしそうに微笑まないで。
 円は完全には重ならない。博は痛く、痛く思い知る。
 不意に、桜ごちが吹いた。
 何故だろう。
 音が聞こえないのは。
 ここに存在を許されているのは、きっと片手で足りるほどしかない。
 眼前に、無数の淡い紅色が乱れ舞う。誰も知らない貝の裏に眠る虹のように、刹那だけ輝く。
「……じゃあ、これは全部、誰かの願いのひとひらか」
 これを掴める者がいるだろうか。
 あまりにもやわらかく繊細なそれを傷つけずに。
(ごう)ね」
 杯を(あお)って、雅が呟いた。
 花びらごと飲み干したらしく、中は空だ。雅の黒曜石(こくようせき)の瞳は、もう干してしまった杯の赤を映している。
「誰も傷つけない願いって、あると思う?」
 問いかけながら、もう答えは出ているようだった。
「誰かの願いが叶うことが、他の誰かの願いが叶わないこととイコールであるなんて、どれほどあるんだろう」
 無数に。
 あるのだろう。
 たとえば、恋の場面。友人が思う相手と同じひとへの恋に堕ちてしまうなんて、本当にありふれた――よくある話だ。
 アルベルト・アインシュタインが言っていた。『人が恋に落ちるのは、重力によってではない』。
 それなら何故。
 Fall。
 そうしたら、もう、in、しか道は残されていない。
 光は曲げられると考えた、想像を重んじた偉大なるひとよ。
 あなたも落ちたのか。
 熟れた林檎が枝を離れ、大地に落ちていくように。
「自分の願いが叶うことが誰かの願いを壊すことなら、――願うのは、業だわ」
 やさしいひと。
 自身が誰かを傷つけているのを知っている、忘れない、そして、誰かが傷つくことに傷つく、やさしいひと。
 業の花びら。
 あなたはそれを、どんな想いで飲み干したのか。
「あるよ」
 手を伸ばした。
 すぐそこに、博が求めてやまないものは、あった。
 どうしてこれを当たり前だなどと思えるだろう。これは奇跡だ。
 (うつむ)く雅の小さな白い手を握る。
 博は微笑んだ。
「“どうか、世界中のすべてのものが幸せでありますように”」
 いつもととのえられた指先を持つ博の、少し乾いてあたたかい手が、雅の手を包む。このたったひとつの手に、自分はどれほど救われてきただろう。
 雅は瞳を揺らせて、唇を少し、噛んだ。
 綺麗だ。
 理想はいつも綺麗事だ。
 そんなの無理に決まっているのに。
 叶ったらいいのに。
 幸福が、誰の痛みの上にも成り立たなければいいのに。
 ――でも、本当は、幸福は、いつだって痛い。
 それが誰かの痛みの上に成り立っていると、誰もが心のどこかでわかっているから。
 だから綺麗なのだ。
 尊いのだ。
 叶ったらいいのに。
「……それは、……願いじゃなくて、祈りだわ」
「どっちも叶うものだよ」
 雅は少し笑う。
 博はやさしい。
「叶うのは祈り。――願いは、叶えるものよ」
 真実(ほんとう)は、願いは、叶えようとする(・・・・・・・)ものよ。
 叶わない願いや、祈りがあることを、お互いに知っていた。
 きっと、知らないひとはいない。
 それでも誰かの幸福を願ったり、祈ったりするのは。
 希望だ。
 綺麗事だと(わら)うなら、嗤えばいい。綺麗なものを見て綺麗だと思うのは、そのひとの心が綺麗だからだ。曇った鏡は何も映さない。澄んだ鏡だけが、どんなものをも鮮やかに映し出す。
 素晴らしいものに囲まれていると思えるのなら、それはそのひと自身が素晴らしいから。
 世界は自身の在りようで、いくらでも輝く。
 それなら。
 叶わないと諦めて(おとし)めるよりも、誰かの願いが叶ったことを喜べる。ひとは受けたやさしさや思いやりを決して忘れないのだから。蓄積されたやさしさは、それを必要とし、求めるひとに、惜しむことなく降りそそがれるのだから。誰の区別もなく。
 親切は繋がっていく。奇跡は起こる。魔法は存在する。愛はすべてを解き放つ。
 それは砂漠に光る一粒の星。
 絶望の(ふち)からあたたかい家へと導く(しるべ)
「ほっ」
 博が持て余した片手を伸ばした。
 腕の先では、緩く拳を握っている。そのまま博は腕を引き寄せ、ゆっくりと手を開いた。
 てのひらには、何も乗っていなかった。
「失敗しちゃった」
 冗談めかして、それでも少し寂しさを(にじ)ませて笑う博に、雅も笑う。
 お願い事は、簡単には叶わない。
「こうするのよ」
 雅が杯を博に預け、立ち上がる。若芽が吹くように。歩き出す。強風にも負けないしなやかな強さを持った、花みたいに。
 青い美空を背景に、無数に舞い散る業の花びら。
 願いのひとひら。
 祈りの数。
 博の、緑を茂らせる枝にも似たやさしい鳶色(とびいろ)の視線の先で。
 雅は、掌では掴めない風に踊る花びらを、立ち止まった肩にひらりと上手に乗せて、笑ってみせた。





end.



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