オレンジと残り香


 柘植(つげ)(みやび)、二十四歳と八ヶ月。四月十五日生まれ、牡羊座のB型。身長百五十六センチ、体重は大体四十三から四十五キロを行ったり来たり。まあ多少肉付きに心許なさはあるものの、至って健康。
切迫早産(せっぱくそうざん)になりました」
「ん、退屈になってきた? しりとりでもしようか」
 隣で洗濯物を畳んでいた(ひろし)が、なんでもないことのように気楽に言った。すぐに自分の殻に閉じこもって、何でもかんでも独りで抱え込みがちな雅にとって、博の大らかさは救いだ。
「しりとり……」
 さっきもやった。昨日もやった。
 必ずフルネームでというルールの人物名しりとり、著者名まで言えるものに限る書籍のタイトルしりとり。色の名前。季語。短歌。俳句。しりとりは飽きない。やっているうちに、気がついたらルールが厳しくなっていた。
「そんな気分じゃないなあ……おなかすいたよう」
 溜息をつくように言うと、博が笑った。そしてうきうきしながら寄ってくる。
「何がいい? 果物? プリンとゼリーなら作ったのがあるよ。パンもごはんもあるけど、ないもので食べたいのがあるなら買ってくる」
「……博さん嬉しそうだね」
 そう、雅が妊娠してからというもの、博は二十四時間体制で機嫌がいい。上機嫌だ。結婚する前もしてからも、雅は博が苛々(いらいら)しているところはもちろん、激昂(げっこう)しているところなど見たこともないし想像もできないが、それにしたってこのご機嫌ぶりははじめて見る表情だった。鼻歌を歌っていないのが不思議なくらいにこにこしている。四六時中。
 切迫早産は一般的に拷問のつらさと言われている。雅も現在進行形でそう思っている。とにかくつらい。
 現在雅に出来る唯一にして最善の行動は、安静にしている安静にしている安静にしている安静にしている、これだけだ。
 寝ても覚めても明けても暮れても、ひたすらに安静にしている。
 これだけ。
 つらい。
 手洗い入浴は辛うじて許されていて、場所は自宅だ。
 自宅であること、は雅にとって何より大きい。何に端を発したものか知れないが、雅の病院嫌いは筋金入りで、嫌いというより恐怖症に近い。
 おなかの子どもは言うまでもなく大切だから、可能な限りいい環境で守りたい思う。おなかの子を守るとは、つまり自身を大切にすることだ。母体が大変なストレス下にあったら、子どもは苦しいに決まっている。妊娠していなかった頃、さらに言えば初体験もまだの頃だって、その程度のことは知っていた。
 でも病院はどうしても嫌いだし苦手だし怖い。
 入院してノイローゼになったら元も子もないが、それを危惧(きぐ)して入院を(かたく)なに拒否し、その結果最悪の事態になったらノイローゼどころではなくなるだろう。
 切迫早産と言い渡されたとき、雅はそれに怯えた。
 初産ではあるけれど、妊娠中のことや出産時のこと、産まれてからのこと、完全に未知の領域のことについてわくわくしたりはするものの、不安もなければ憂鬱さもない。毎日大騒ぎなんだろうなあと思うと楽しいし、反抗期にはどんな口答えをしてくれるのかしら、と先走った想像をするのはおもしろい。元来、知らないことを知ったり、やったことのない体験をしてみるのは好きだ。
 でも、多分それは除夜の鐘が響くような大きな衝撃で、なんの音も心構えもなかった瞬間、その隙をついて雅の隅々にまで行き渡ったのだ。
他人事と思っていたのとは違う。可能性は視野に入れていた。でも、実際にそうなってみれば、どうしようもなく不安になった。
 妊娠してからはじめて泣いた。
 即時入院と言われたわけではなかった。そのときは「安静に」というだけだった。でも、一気に病院に対する恐怖心が膨れ上がって、心臓を、内臓を、――子宮を握り潰されるような思いがして、身が竦んだ。
 病院が怖くなかったら、怖がらずに病院にいられるのに。そう言って、子どもみたいに泣いた。(ひろむ)のことより自分のことを考えてるのか、弘のことを考えてるから自分をどうにもできないのかがわからない、区別がつかない。
 臨月の遠い腹を抱いて泣いた。
 子どもの名前は決まっていた。
 弘。
 だから、妊娠がわかったとき、雅は「妊娠した」とも「赤ちゃんが出来た」とも言わなかった。渡り廊下一本で繋がっている職場から帰宅する博を待ち構えていて、おかえりなさいを言うより早く、
「ひーちゃんが来た!」
 と満面の笑顔で言い放った。腰に手を当てて実にえらそうにえっへんと幼い仕草で得意げに。
 雅の笑顔を誰より早く見て、誰より早く弘の名前が実体を伴ったものとして発せられたのを聞いたから、泣きじゃくる雅を抱き締めるのは簡単だった。当たり前のことだった。博にとって、雅に触れるとはそういうことだ。
 ――弘を大事に思ってるんだから、自分を上手に大事にできないと思ったら苦しいのは当たり前だと思うよ。
 どちらかが先では成り立たない。臍の緒という、この世でたった一本の命綱で繋がっているのだ。軋轢(あつれき)や葛藤は、生じた瞬間何より鋭利な刃物になる。
 つらいのはわかるよとか、今からそんな事を言っていたらやっていけないとか、そんな無責任や無関心を博は一言も口にしなかった。雅がぼろぼろ零す涙と不安を一粒ずつ聴いて、それらすべてを一粒ずつ(すく)って受け入れて、微笑を添えて雅の瞳に返した。
 いっぱい泣いたからお茶にしようかと提案されたから、雅はオレンジと答えた。ジュースにしようかと訊いてくれて、「オレンジは食べる。飲むのは白湯がいい」と腫れぼったい瞼で訂正した。
 そんなことがあって、結局雅は落ち着いてしまった。安心するしかなくなった。だって博がオレンジの皮を丁寧に剥いてくれたから。その断面がひどく綺麗で色鮮やかで、食べさせてくれた味が甘かったから。
 で、現在雅は自宅にて安静にする毎日。博の職場は渡り廊下一本で繋がっている。だから、産休は取っているものの、距離が距離だけにちょっとした確認――つまり雅は何もわかっていない――で少しいないこともある。が、実母もふたりの実父も義父も義母も、ついでに妹も代わる代わる顔を出して何かと手伝ってくれるから、雅としては何も困っていない。不便だしずっと寝ているのも文字通り拷問だけれど、周囲が皆あたたかいから、そういう意味では困っていない。少し不思議な感覚だ。  博の同級生の友人夫妻も見舞ってくれるし、雅自身の唯一の同級生も、遠方に住んでいるのにわざわざ見舞ってくれて、恵まれているなあとひしひし感じる。
 博の兄にはじめて会ったのもついこの間だった。虫やら動物ばかりを撮るカメラマンなのだそうで、義母は「写真撮りたさに縄張り侵して、激怒したカバとドッグファイトでもしてるんじゃないの。ああカバだからドッグじゃないか。ヒポポタマスか」と言い、義父は「ミシシッピ川でワニに喰われてるかもね」と言っていた。
 博は、
 ――兄ちゃんまともに生きてたんだ……結婚したって報せたときも帰ってこなかったのに。
 と言った。どこやらの砂漠にいて帰れなかったとかなんとか言っていたがもうよくわからない。密林の奥地だっただろうか。とにかく容易に連絡が取れなくなってしまうところに行くことはわかった。
 とりあえず、博とほとんど同じ顔をしていた。
「みーさん」
「ん」
「何食べたい?」
「ああ」
 尋ねられて我に返った。そういえば空腹を訴えたところだった。
 和室に布団を敷いて横になっている雅の真横に行儀よく正座して、博はやっぱりにこにこしている。次の指示待機状態、どう見ても犬。
「今さらだけど犬みたいだね……相変わらず」
「みーさん猫みたい。犬と猫どっちが産まれるかなあ」
 相の子だろう。
「犬寄りがいいかな……私みたいなのが猫だとしたら、社会で生きてくのは結構しんどいと思うから……苦労は大枚(はた)いてでもしろとは思うけど、苦労と苦痛は違うしね……」
 ふ、と息をついたら、博の指が額で乱れた前髪をかき分けてすっきりさせてくれた。彼の手は相変わらずあたたかくて、いつも少し乾いている。
「疲れた?」
 そっと尋ねてくる声がやさしい音叉( おんさ)だったから、雅はわけもなく泣きたくなる。
「布団変えようか?」
「今朝変えたばっかりだよ……もったいない」
「もったいなくないよ。……眠い?」
「嬉しそうだし楽しそうだね」
 同じ言葉をちょっとしたおまけ付きで繰り返したら、博は軽妙に笑った。
「うん。みーさんいっつも自分のこと全部自分でやっちゃうから。こんなに毎日毎日世話焼けて、みーさんから頼ってもらえて甘えてもらえるなんて幸せ」
「おめでたいねほんとに。私何もやらなくなるよ」
「嫌気が差すほど甘やかすから覚悟した方がいいよ」
 それは嫌だ。自分で何もできない人間なんて嫌だ。子は親の背中を見て育つと言うし、それが本当なら、そんなの弘に見せられる背中じゃない。
「堕落するのはやだ。私はこれから闘うんだから。それも人生最大の闘いなんだからね。これから先ずっと」
 この子は『弘』という名を持って生まれてくる。生まれたからつけるのではない。生まれ持ってくるのだ。
 雅の胎内に宿るより早く、弘は弘という名前を持っていた。雅が、子どもにはヒロシとつけようと言い、博はそれじゃわかりづらいよと笑った。それならヒロムにすると返されて、博は何も考えることなく、反射としか言えない速さで『弘』という一文字を出したのだ。
 つけたわけではない。
 雅も博も、候補を挙げただけだ。
 だから、これから生まれてくるこの子の名前は、弘が最初から自分で持っていたものだ。それはきっと、魂の名前だ。
 男の子だろうか。女の子だろうか。
 女の子のような気がする。
 雅が「ひーちゃん」と呼んだからだろうか。そうかもしれない。
 驚くほど純粋で、痛々しいほどやさしくて、愛情を惜しまない引き換えに恋に無知な女の子。
 雅みたいだ。
 そう思う度、博は、守られないというたったそれだけで (もろ)く砕け散るものがあるのだと知る。
 守られなければ儚くなってしまうだけの命だと知ったから、毎日抱き締めてキスして愛してると言って、明日はいつも今日より素晴らしいものなのだと信じて、それを教えようと思う。雅が世界を美しいと信じていること、それを知って博が世界の色を見直したことを伝えようと思う。
 難しくない。
 汚いことなんか、教えなくても、知りたくなくても簡単に目に入り、耳に入ってくる。悪いことや汚いことほど単純で、容易に覚えてしまう。難しいことを知らなくても、簡単なことを考えなくても、軽易に行えてしまう。けれど、人間として人間の中で生きていくなら、善はなくても悪はある。知っていなければいけないことだ。
 やさしさや美しさは、教えられないと知ることができない。哀しいけれど、それが事実だ。
 ひとも生き物だから。
 好意に鈍感でも生きていけるけれど、敵意や悪意には敏感でないと身を食い潰されてしまう。だから博は、自分が知っている限りの綺麗なこと、美しいもの、そしてやさしさすべてを教え、見せて、聞かせて育てると決めている。それらを再確認しながら自分も育てて、成長していくと決めている。
 ひとの手はすべてを救い上げるためにあるものだから、決して振り下ろしてはいけないのだと、身をもって示していく。
「では人生最大の闘いに臨むに当たって、現在もっともやりたいことは?」
「オレンジ食べる」
「持ってくるから待ってて」
 笑って立ち上がろうとした博の服の裾を、つんと引っ張った。おなか固定で腕だけを動かす技もずいぶん磨かれてきたように思う。
「その前にキスして欲しい。それからオレンジ剥いて。それ食べたら寝るから、寝る前にもう一回キスしてほしい」
「いっぺんに三つも頼んでくれるなんて大サービスだね。ありがとう、ついでに何かもう一個頼んで。甘えて。我儘(わがまま)言って」
 結構頑張って出した我儘だったのに、さらにひとつを求められた。頼んで甘えて我儘言ってと、三つの言葉でせびられた。
 ――結構頑張って言ったのに。
 恥ずかしくなって口を(つぐ)んでしまう。けれど、博がとろけるような幸福の微笑で待っているから、もう少し頑張ろうかな、と思った。
「……オレンジ、甘くないとやだ」
「うん。あとは?」
「一個って言った!」
「大事なひとに差し出すオレンジが甘いのは世界の常識。だからあと一個」
 うう、と詰まる。そんな常識があっただろうか。雅は知らない。でも、あってもおかしくないなあと思うし、あったらいいなとも思う。
「……寝るまで、手、握っててほしい」
「それくらいのことでいいの?」
「私にとっては大きい」
「みーさんかわいい」
 博が屈託なく笑って、雅の頬を手の甲でそっと撫でた。ほんの少しだけ。雅は後悔する。ほんの少しだけ。
 やっぱり言うんじゃなかった。
 こんなの私が赤ちゃんみたいだ。
 ふいと顔を背けた。視線の先は縁側で、今日は天気がいい。景観は素晴らしいはずだ。雅だって目を閉じてはいない。
 それなのに何も見えない気がするのは、光が眩しいとしかわからないのは、これ以上なく淡い羞恥と、これ以上ない安堵が涙になって瞳に膜を張っているせいだ。
「博さん、ひどい」
「雅」
 絶対言う、と確信があった。
 博は簡単に雅を溶かしてしまう。
「好きだよ」
 やっぱり言った。少し前まではあまり言わないでいてくれたのに、最近あっさり言うようになってきた。もしかしたら、愛してるとか言ってくる日も近いかもしれない。
「もうオレンジいらない」
 もっと自由に動けたら、どうにかして涙を誤魔化して、博のやさしさをふり払うのに。
「みかん剥いてあげる」
「いらない。もう博さんにはなんにも頼まない。ばか。ひどい。いっつも私が泣くようなこと言う。博さんが黙ってたら私泣かなくてすむのに」
「かわいい責任転嫁だね」
 甘い声に笑われて結論付けられ、雅は抵抗するのも放棄するのもやめた。キスをもらって、オレンジをもらって、キスをもらって、寝た。オレンジはいつも通り丁寧に剥いてくれた。手を握ってくれる博のそれはいつも通りの感触と温度だったけれど、匂いだけが違った。
 博はいつも、ほんの少しだけ、消毒薬の匂いがする。彼は歯科医師なのだ。
 雅の手を包んだ彼の手に消毒薬の匂いはなく、オレンジの残り香だけがあった。それで雅はつくづく実感したのだ。
 身体が消毒薬から遠くなるほど、彼はずっと傍にいてくれているのだと。





end.




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