お題:愛で死ねるか否か。


「無理でしょう。ねえ、(ひろし)さんはどう?」
 どう?
 って、何が「どう?」
 博は家計簿をつけていた手を止め、乱視用の薄い眼鏡を外した。ソファで黙々と、それはもう存在感限りなくゼロに近いくらいに静かに読書していたはずの(みやび)を見る。
「なんの話?」
 前振りも何もなく(たず)ねられても、反応のしようがない。
 雅の言い方から察するに、どうやら、彼女としては無理だと思うことについて博の見解を訊いているらしかった。が、それしかわからない。
 博の視線の先で、雅がぱたんと文庫本を閉じた。
 表紙が傷つくのが嫌だ、褪色(たいしょく)するのが嫌だ、天地小口(こぐち)が擦り切れるのが嫌で、(かど)もちりもきちんとしておきたい。そんな具合だから、雅は必ずカバーをかけて本を読む。買ったときに帯がかけられていたものは、帯ごと包んでいた。
 本棚は、午前も午後も日が当たらない場所と角度に置かれている。柘植(つげ)家でもっとも薄暗い場所だ。彼女が嫁入り道具に持ってきたのは桐箪笥(きりだんす)精々(せいぜい)だったが、実家では大きな本棚丸々雅の蔵書が詰まっていたという。それを雅の妹の小鞠(こまり)から聞き、博は結婚してから大きな本棚を買った。これまであったのも大きい部類ではあったけれど、雅の蔵書数を聞くだにどう考えても収まりそうもなかったのだ。
 どうせこれからも増えるのだからと、雅とふたり一ヶ月家具屋を練り歩いた。
 柘植家に運び込まれた大きな書架(しょか)には、まあなんというかジャンルは多岐(たき)にわたっている。ちゃんぽんぶりといい本の管理の仕方といい、博は本の虫である旧友を思い出すこと多々だった。
 とにかく可能な限りきれいな状態で保存しておきたいという雅だが、その彼女がいちばん嫌うのが背の褪色だった。天地小口が擦り切れるのが嫌だとは言うが、背の褪色は比較にならないほど嫌らしい。天地小口の焼けは割り切れるとも言い換えられる。
 で、何がどうなっても背を焼きたくない場合。
 置く場所も場所だが、彼女は小口を犠牲にする。つまり、背から棚に入れるのだ。当然、書架には小口がずらりと並ぶことになる。何が並んでいるのか、はっきりと把握しているのは雅ひとりだ。彼女の蔵書は彼女なりのルールに(のっと)ってきちんと分類されてはいるが、それは必ずしも博と一致しているわけではない。だからというわけではないが、小口だけがずらりと並んだ棚を前にすれば、出してみないことにはなんの本なのか博にはわからなかった。
 本に対する執着や愛情の違いというよりも、お互いの管理方法が異なるというだけの話だ。
 本がいかに愛されているのかは、文庫本の下から三分の一程度の高さがどれほど汚れているかを見ればわかる。それだけは、その点だけは、本を読む人間であれば、きっと説明されなくてもわかる。
 その部分が汚れて擦れている本を見つけると、博はいつも、ずっと探していた宝物を見つけられたような気持ちになった。
「みーさんごめんね、エスパーじゃなくて……」
「いやいや、エスパーなんて困る。臍繰(へそく)ってるお酒の場所、ばれちゃう」
 ちょっとしゅんとして言ったら、雅がくちもとを(おお)って軽い笑い声を立てた。彼女はふたりきりのときでさえ、ほんの少しの振る舞いにも(ほころ)びが出ない。
「ごめんね。自分の中では話が繋がってたから」
 雅はあのねと言い直した。
「愛で死ねると思う?」
 うむ。唐突になかなか厳しい質問であります。
 博ははあと反応にもなっていないような中途半端な息をついて、
「どの愛?」
 と、とりあえず確認した。
 雅が(ひざ)の上に本を乗せ、うんと(たて)に背伸びする。
「恋愛。別に夫婦愛でもいいけど」
「精神的に? 肉体的に?」
「肉体的に」
 さて、どうだろう。
 博はボールペンを置いた。雅を真似るように背伸びをする。
「それは俺のことを()いてるの? それとも世間一般様?」
「どっちでもいいよ」
 質問しているわりには(くく)りは大雑把(おおざっぱ)だ。雅らしい。
 博はどうかなと考えようとして、すぐに考えるまでもないことに気づいた。
 答えなど決まっている。
「少なくとも俺は無理」
 言うと、雅は「私も無理ー」と笑った。
「博さんのこと好きだけど死ねないわ。何かから(かば)ってたまたま死んだりはするかもしれないけど」
 身も(ふた)もない言い方だ。が、同じく、と博は返す。
 脅威(きょうい)や恐怖からは守りたいと思うけれど、だからといって心中しようとは思わない。二世(にせ)を誓った一蓮托生(いちれんたくしょう)の覚悟はあるが、カルネアデスの板を諦める気にはなれなかった。諦めてくれと相手に思っているのではなく、相手にも諦めてほしくないのだ。
「やっぱりねぇ、無理ね。某ベストセラー小説じゃあるまいし」
 雅はあっはっはと笑ったあと、ぴたりと止まった。黒い瞳がしんと静まる。
「そんなになったら怖いなあ。『一緒に死にましょう』って、自分と相手以外のすべてを拒絶するってことだもんね」
 そういう愛も、世界にはあるのだろう。
 でも、雅は当事者にはなれそうになかった。
「あのひとたちはあれで幸せだったんだろうなあ……」
「引きずってる?」
 博が苦笑して尋ねると、雅も苦笑した。
「引きずってる。結構ショックだったの」
 生は変化なくしては有り得ない。
 今現在があまりに幸福で、その崩壊を恐れたとき、生という変化は大変な重圧となって襲い来る。
「『幸福になる為のいちばんの近道は不幸を知らぬこと……つまり、何も見ず、何も聞かず、何も触れず、何も愛さぬこと』――ってやつかあ。そりゃ死んだら本人たちは楽だろうけど」
 はあぁ、と重い溜息をつく雅に、博が笑って言った。
「でも『幸福の秘訣(ひけつ)は他人の喜びに喜びを見出(みいだ)すこと』ってのもあったでしょ、確か」
「ああ。ベルナノスね」
 名前がさらりと出てくるあたり、さすが雅だ。
「自己犠牲に徹せられる愛っていったら、やっぱり母性愛かなあ。すると三年間だけだね」
 母性は本能だ。つまり、動物的なもの。人間の場合は、母性は子どもが生まれてからでは三年ほどでなくなるらしい。それ以上長い期間になると、それは母性とは厳密に言えば違う。
 考えてみれば当然だ。
 いつまでも(えさ)を与えられているばかりでは、自分で獲物(えもの)を捕えることができずに飢え死ぬばかりだろう。子育ての期間を終えた母狐が、それまで大切にしていた子狐に牙を()くようなものだ。
「私死にたくないなぁ」
「誰も死んでくれなんて言ってないよ、みーさん。死なないで」
 雅がむうとふくれて気持ち悪そうな顔で言うから、博はふるふると首を横に振った。すると彼女は、
「当然でしょ。私博さんより長生きするもん」
 と、何故か胸を張った。
「なんでまた」
 雅がきりりと顔を引き締める。
男寡(おとこやもめ)には(うじ)()くのよ。自分がいなくなってからの話とはいえ、家が蛆虫(うじむし)だらけになるのは御免(ごめん)(こうむ)りたいの」
「ああ、なるほど。そういうこと」
 どちらかといえば、ひとり残されて蛆が湧きそうなのは博よりも雅の方なのだが、そんなことはもちろん口には出さない。
「それに……」
 ふにゃ、と力を抜いて、雅はちらりと博に視線を流した。
「うん?」
「私、死ぬために博さんと結婚したんじゃないもの」
 相変わらず博のやさしさがつらいときがあるけれど、雅は幸せだ。
 でも、幸せとはなんなのかと問われると明確には説明できない。
 幸福は不思議だ。千の言葉も、億の抱擁(ほうよう)も、すべてひとことで表せてしまう。
「死んで幸せになりましょうって、不確定要素が多過ぎるでしょう」
 ――幸福の秘訣は他人の喜びに喜びを見出すこと。
 雅は当たり前にそうして生きている。
 それを彼女に伝えたものか否か、博は少し迷っていた。
 きっと、雅は照れるから。
 照れて否定して、博さんに言われたくない、とむくれるだろうから。
 そして博も、雅が博に対してそうあってくれるように、彼女が喜んでいると幸福な気持ちになれる。雅がやわらかな(ほほ)紅潮(こうちょう)させて笑っているのを見ると、それだけで嬉しくなる。
 だから博は、
「俺も死にたくないなあ」
 と笑って雅に同意した。

 生に対する未練(みれん)たらたら、結構結構。
 だって相棒なら、もう死ぬしかないほど追い詰められた場面でも、絶対に生きる道を選んでくれる。





end.




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