Love affair


 世の中には痴情(ちじょう)(もつ)れというものがある。
 嫉妬で殺人を犯してしまう(やから)までいる。
 そこまでは望まない。望まないとも。ただ、少しくらいのやきもちは焼いてほしいなぁというのが、実にささやかで実に贅沢(ぜいたく)な、(ひろし)の望みなのだった。
 つまり(みやび)はやきもち焼きではない。
 女性は蛇となり鬼となると(うた)われるほどに嫉妬(しっと)(ぶか)いものだというのがお約束だが、彼女にはどうやら当て()まらないらしいのだ。
 博としては、少し寂しい。もともと彼女が人一倍自立心が旺盛(おうせい)で、その上甘え下手ということもある。『博が雅に』構ってほしいとも言い換えられるが、どちらかといえば――というか、正しくは心配に近かった。自分が気づいていないだけで無理をしていないか、なんでもないふりをしているのではないかと不安なのだ。
 何故博がそんなことを考えているのか。
 それはひとえに、目の前にいる女性が愛妻ではないことに起因している。
柘植(つげ)くん結婚したのねえ」
「うん」
 買い物帰りのことだ。
 買い忘れに気づいた雅が、博に荷物の番を頼んで店内に入っていった直後、懐かしい女性と再会してしまった。
 フレンチスリーブの黒いワンピースが(あで)やかだ。夏の休日との対比が(まぶ)しい。
 女というのは、しばらく会わないと顔が変わっていたりする。十年経っても変わらない者もいるにはいるが、大抵変わっている。
 だから、声をかけられたときも最初は誰だかわからなかった。ただでさえ変わるのが女だというのに、化粧まで変えられては誰だかわからない。が、一言二言と交わして、さすがに気づいた。
「昔付き合ってた女の顔もすぐ思い出せないなんて、実は相当遊んでたんでしょ」
 日曜のショッピングモール、混雑したフードコートエリアで、博はコーヒーフロートを飲んでいた。水だけで(ねば)るのは忍びない。
 幾恵(いくえ)が博を見つけたのは偶然だ。濃い茶の癖っ毛と、学生時代となんら変わらない背格好はとてもわかりやすかった。
「遊んでなんかないよ。髪が長いし、化粧も違うからすぐにはわからなかっただけ」
 テーブルを挟んだ向かいに座った幾恵を邪険(じゃけん)にするでもなく、博はいつもの落ち着いた声で笑った。
 付き合っていた時分、幾恵の髪はショートカットだった。それが、今ではあと少しで腰に届きそうなほど長くなっている。
「柘植くんと別れてから伸ばしはじめたの。悔しくて」
 深い栗色に染められた髪に手をやって、幾恵が苦笑した。ほんの少しの羞恥(しゅうち)(にじ)んでいる。
「ふられたの俺なのに?」
「そうよ。だって柘植くん、暖簾(のれん)みたいなんだもの。全然手応(てごた)えがなくて……今だって。奥様に(やま)しい気持ちが全然ないから、そんなにあっけらかんとしていられるのよね」
 どういう意味かいまいちわからず、博は無意味にグラスの中のコーヒーをくるりと回した。長いストローの無機質な弾力が指に伝わってくる。
「私、柘植くんのそういうところがすごく嫌いだった。束縛してほしかったわけじゃないけど、いつも不安だったのよ。このひと、ほんとに私のこと好きなのか、どこを好きでいてくれてるのかって」
「その都度(つど)質問には答えたよ」
 と言いながら、博には自覚がある。正しくは、雅と出逢(であ)い、彼女とともにあるようになって自覚できたことだ。
 ――暖簾みたい。
 それはきっと、旧友が博を指して、「風みたい、水ではなくて、流れそのものみたい」といった、意味は恐らく同じだろう。
 博の大らかさは、時折ひとをとても不安にさせる。
 幾恵はくちもとに手を当てて、ふふっと笑った。磨かれた爪がきれいだ。
「だから、そういうところが嫌だったの。面倒くさいこと()くなって言ってくれた方が、まだわかりやすいから」
 それに、と()いで、幾恵が博から視線を()らした。
「今だから言えるけど。私のこと好きだって言ってくれてたのは嘘じゃないんだろうけど、でも、気になって仕方ないひとはいたでしょ? 恋じゃなくても」
 博は少し迷って、それから静かに(うなず)いた。
「……うん。……女性って鋭いなあ……。……ごめん。つらかったでしょ」
「だからそういうところが嫌いなのよ」
 あの頃、博は雅に恋していたわけではなかった。
 ――と、思う。自覚があってこそ恋だというなら、雅に恋をしていたわけではない。
 ただ、幾恵の言うように、気になっていた。
 ひとりで立とうとする強さと、ひとを傷つけることに臆病な(もろ)さ、繊細さを放っておけなかった。だからといって、雅に何かをしたということはない。不用意に触れれば、たとえそれが指先のことだとしても、彼女を壊してしまいそうに感じたのだ。触れるのなら覚悟が必要だと思った。
 自覚があってこその恋だというのなら。
 それなら、幾恵に恋していたかどうか、今となってはわからない。
 好きだったのは嘘ではないけれど、あれは恋慕(れんぼ)だったのだろうか。
「ごめん」
 博はもう一度謝った。
「好きだって言ってくれてたのに……ほかのひとのこと考えてた」
「過ぎたことよ。だからこうして、面と向かって嫌いだったって言えるの」
 花のようににっこりと笑われて、博は肩から脱力し、それから情けない顔で笑った。
「女性って強いよねえ」
「そうじゃなきゃ生きていけないってだけよ。久しぶりに会った元恋人に一回も名前呼んでもらえなくても、泣かないでいられるためにね。――じゃあね、柘植くん。かわいい奥様によろしく」
「え?」
「あと二十メートルくらいじゃない?」
「えっ?」
 ぱっとふり返ると、金魚模様の夏羽織(なつばおり)を着た雅が、ひょこひょこ向かってきていた。
「少しの嫉妬はスパイスになるのよ。もういい(とし)なんだから覚えといてね」
 幾恵はぱちりとウインクを飛ばして、颯爽(さっそう)と去っていった。ひとの足の甲を簡単に貫き通せそうなピンヒールが、軽快な音を立てて遠ざかっていく。
 日曜のフードコートの雑踏(ざっとう)に紛れ、幾恵の姿はすぐに見えなくなってしまった。
 彼女は雅には会ったことがないはずだが、かわいい奥様と言っていたから、博が雅と別れる前に見つけていたのかもしれない。
 が、それは今はどうでもいい。
 現在の状況で博がなさなければならないのは、雅への説明だ。
「……みーさん」
「きれいなひとね。博さんの恋人?」
 ――なんってこと訊きますか!
 雅は別段気分を害した様子もなく、なんでもないような顔をしている。
「ええ……今は違うよ」
 これ以上なく正直に答えたのだが、それを聞いて、雅は実にかわいらしく微笑んだ。
「やぁだ博さんたら。今の恋人だったらそれ不倫よ? 不倫っていったら私の許せない行為のひとつだし、結婚するとき『浮気したら一生娑婆(しゃば)に出られなくなるように(おとしい)れてやるから』って言ったでしょ?」
「は、はい。しっかり覚えております」
 ――あれ。
 ふと思い至る。
 娑婆云々は結婚に(のぞ)む照れ隠しだと思っていたが、それはつまり嫉妬、(ある)いは独占欲の表れなのではないだろうか。
 でもなあ、と考え直す。
 だって、相手は雅なのだ。
 単純に、不貞(ふてい)は罪と嫌悪しての台詞だったとも取れる。指切りをした以上、約束を破ったら針を千本飲んでもらうよと、そういう意味だったのかもしれない。
「うん、覚えてるならいいの」
 雅はにこにこ頷き、博は思案顔でそのまま帰路(きろ)についた。



 意外なことに、雅のご機嫌はあまりいいものではなくなった。
 珍しい。おかしい。
 これまでどんなに博がほかの女性と話していようが気にも留めなかったのに、今回に限ってむっとしてしまったのだ。
 博は困った。
 何に困っているかというと、雅の腹の立て方がいつもと違う点だ。
 いつもは顔に出るからわかりやすい。それに、大抵「今は機嫌が悪い」とはっきり口にする。
 雅の地雷は基本的にどこにあるのかわかりづらいが、機嫌が直るポイントはわかりやすい。(おおむ)些細(ささい)なことだ。
 それなのに、今日は(はた)から見れば「何かいいことあった?」と訊きたくなりそうなほどの笑顔だった。
 にこにこしながらむっとしている。怒っているとわかってしまうのは、付き合いのそれなりの長さと密度からだが、こんな怒り方をされるのははじめてだった。
 ――無闇(むやみ)につつかれるのは嫌だろうなあ。
 原因は十中八九(じっちゅうはっく)幾恵だろうが、博から切り出していいものなのかどうか。大体、昔の恋人という一言で決着がついているのだ。これ以上あれこれ言うのは、(わずら)わしいだけなのではないだろうか。疚しい点などないものだから、余計に博には言葉がない。
 明日になれば機嫌も直っているだろうかと考えてベッドに入ると、追いかけてきた雅もベッドに上がり、そして何故か正座した。
「雅……昼間のあのひとは」
「ごめんなさい」
 しおらしく謝られ、博は狼狽(ろうばい)した。
「なんでみーさんが謝るの?」
 そうだ、謝る。これがあった。娑婆発言と雅の不機嫌な笑顔で吹っ飛んでいたが、謝らなければいけない。確かに、既婚者たるもの伴侶以外の者との会話は相手の承諾なしにしてはいけない、などという決まりはない。けれども、自分が買い物に行って戻ってきたら、コーヒーフロートを飲む夫の向かいに知らない女が座っていたなんて、いくら雅でもいい気はしないだろう。
「みーさん、謝るのは俺だよ」
「なんで?」
 雅は落ち込んだまま訊き返してきた。彼女の中では、完全に自分が悪いと決定づけられてしまっているらしい。
「あのね、やきもち焼くなんてみっともないなあって。しかもそれで不機嫌な顔するとか、大人気(おとなげ)ない。いやな気持ちにさせてごめんね」
 本当にやきもちだったらしい。ついでに、本人の脳内では笑顔が不機嫌な顔に変換されていたらしかった。
「大人気ないなんて思わないよ。やきもちに大人も子どもも関係ない」
「うん……」
「いやな気持ちにもなってないよ」
「うん……」
 博が笑って言うのに、雅はしょんぼりと肩を落としたままだ。実は嬉しい、と言い出しにくかった。
「あのね」
「うん?」
「あの……」
 (うつむ)いたと思ったら、視線を上げる。と思ったら目線だけ下がり、また上がり、彷徨(さまよ)って、そのうち雅の(ほほ)が赤くなりだした。
「みーさん?」
「……マナー違反だってわかってるの」
 やっとのことで出てきた彼女の言葉は、なんとも突然だった。なんのことを指しているのかわからない。
 博は布団から出て、雅と(ひざ)をつき合わせた。雅が僅かにびくりと震える。
「過去の恋人のこと気にするなんて……」
 雅が赤い頬でもそもそ言う。
「目の前で会話してるの見たら、誰でも気になると思うよ」
 恋人ではなくただの知り合いだと、あそこは嘘をつくのがよかったのだろうか。
 でも、相手は雅なのだと思うと、そんな嘘はつけない。
「そうじゃなくて……もっと、……やなの……」
 雅が幼い仕草で唇を()む。
「……私にしてるみたいに……博さんが今までお付き合いしてきたひと、みんなにしてたのかと思うと、……複雑な……気持ちに、なって……」
 みんなと言えるほど数は(こな)していないのだが、それはともかく雅の中では色々飛躍してしまったらしい。
「いや、誰とするっていっても、することはみんな同じなんだけど。だから、言いがかりだって、ちゃんとわかってるの。なのにこんな……いやらしい。私、最低……」
 わかっていてもどうにもならないのがひとの心で嫉妬なのに、雅はかなり深刻に落ち込んでいる。もしかしたら、博が、俺だってやきもち焼きますと言ったことが頭から抜け落ちているのかもしれない。
 嫉妬がスパイスだなんて好きな考えではないけれど、やきもちを焼いて真面目にしょぼくれている雅はかわいかった。
「することは同じかもしれないけど、でも、同じじゃないよ」
 笑いながら言って、そっと抱き寄せる。雅はおとなしく博の腕の中に収まった。
「雅のことしか考えてない」
 見上げてくる前髪を()き分けて、額にキスを落とした。すると、雅はむうと難しい顔をする。
「今まではほかのこと考えてたってこと? 相手の方に失礼だよ」
 ――真面目なんだよなあ。
 相手に対して清廉(せいれん)でもある。
「そういうのとは違うけど、説明は難しいよ」
「……うん、……うん……」
 実際難しい。感覚的なことだ。雅もそれは一応わかるのか、追及はしてこなかった。
 まだ赤みの引かない頬の雅をやさしく抱きしめる。腕の中から、くすぐったそうな笑い声が上がった。やっと本物の笑顔を見られたことに安堵(あんど)する。
「みーさんもやきもち焼くんだね」
「そうみたい」
 他人事(ひとごと)みたいな返答が明るい。あまりにも気安く言うから、博も笑ってしまう。
「もっと焼いて」
 くすくす笑っている唇にキスすると、雅は首を(すく)めてまた笑った。




end.




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