紅閨


 どこの部屋にも姿が見られなかったので、(ひろし)(ふすま)を開けて和室を(のぞ)き込んだ。
 (すそ)に松葉模様のある利休白茶(りきゅうしらちゃ)の長羽織を着た(みやび)が、珍しく足を崩して座っていた。この寒いのに足袋(たび)()いていない。きものは白地に梅と(うぐいす)模様のものだ。なよやかに崩れている後姿から、ほんの少しだけ裾が見える。
 (かたわ)らには陶器の丸火鉢があった。青い筆の麻の葉が点々と散っている。
 和室はあたたまっているとは言い難かった。
 しんと冷えた空気がゆったりと揺れ流れている。冬の玲瓏(れいろう)な滞留が満ちていた。
 早く襖を閉めた方がいいとわかっているのに、博は襖に手をかけたまま、立ち尽くしてしまった。
 雅の(うなじ)があまりにも白かったからだ。
 出産してから、雅は少し太った。もともと()せすぎの体型だったから、今では標準より多少軽い程度になっている。とはいえ彼女が柳腰(やなぎごし)であることに変わりはなく、帯を締めていてさえその細さが感じ取れるほどだった。
 肌の具合は少し変わったと思う。
 透きとおるような(はかな)い白さではなく、楚々(そそ)として(つや)のある白い肌になった。
 その白さの項が、冷たい冬の薄曇(うすぐも)りの縁側に浮かび上がっていた。(まと)め上げている髪の後れ毛が、一筋細く黒々と流れている。衣紋(えもん)をきれいに抜いているから、ほんのりと光るような背中が(わず)かに見えた。
()やいよ」
 独白(どくはく)のような声音で言われて、博はやっと我に返った。雅は一応気づいていたらしい。
「おかえりなさい」
 視線だけふり返って、雅はまた、独白の調子で言った。
「ただいま。ごめん、寒いのに」
 博は音が鳴らないように、気をつけて襖を閉める。廊下からの冷気が流れ、吸い込まれるように断たれた。そうしても和室はやはり寒い。
「いいよ。火鉢の(そば)だから、たぶん博さんが思ってるより冷えてないの」
「足袋も履かないで……」
「うん、つま先は(こご)えそう」
 雅が(かす)かに肩を揺らしたので、博は彼女の隣に(ひざ)をつき、てのひらでつま先に触れてみた。冷えきって色を失っている細い足の小さな爪を、そっと包み込む。
「冷たい」
 火鉢のぬくもりがじわじわと伝わってくる。けれども、雅が言ったほどにはあたたまっているとは思えない。
 窓は閉めきってあるが、硝子(がらす)の冷え込みは触れるまでもなかった。透明な一枚を(へだ)てて、今は裸の桜と梅が佇んでいる。真冬の薄曇りの下に、見える景色のすべては陰影を薄くしていた。
「博さんの手は相変わらずあったかいね。外から帰ってきたのに。……雪のにおいがする」
 中途半端な長さの雅の髪は、後ろは纏められているが、そこまで届かないだけの髪が(ほほ)(こぼ)れかかっている。(うつむ)きがちの髪に触れると、案の定冷たかった。火鉢に接している側は、多少なり熱を持っているのだろうか。
「まだ降ってないよ。来そうだけど」
「珍しいね」
「うん」
「やりたくなるね」
 と言って、雅が(さかずき)を傾ける仕草をした。寒そうに肩を(すぼ)めて、子どものように唇を(とが)らせて。
 何枚もの正絹(しょうけん)に包まれて丸くなった華奢(きゃしゃ)な肩がぶるりと震えたから、博は笑った。
「待ってて」
 雅は(ひろむ)が小学校を卒業するまで酒を飲まない。放浪もしない。彼女にとって、そのふたつはどれほどの意味を持っているだろう。
 想像するのも困難だから、博はあえて深く切り込むことはしないと決めていた。
 雅が決めた覚悟以上のものを、自分は持っているだろうか。
 比較することではないとわかっていても、雅の言動は徹頭徹尾何もかも貫かれるから、博などは時折寄る()ない気持ちにさせられてしまう。
 雅が博のやさしさや大らかさに傷つくことがあるように、博もまた、雅の意志の強さに後ろめたくなることがある。
 何が正しくて、何が間違っているという話ではない。ただそうである、というだけのことだ。
 そして、その、『それだけ』が大きな意味を持っている。
「お待たせ」
 盆に徳利(とっくり)とふたり分の猪口(ちょこ)()せて、博は雅の隣に胡坐(あぐら)()いた。
「そっちじゃなくて、火鉢の方に来たらいいのに。寒いでしょう」
「みーさんの隣の方があったかい」
「愛が重い」
「情熱的だって言って。はい」
 猪口を手渡す。雅は不思議そうな顔をしたが、戸惑うことはなく受け取ってくれた。
 (かす)かに触れ合った指先は、やはり冷たかった。
「みーさん、雪女みたいだよ」
「博さんは雪女っていうのね。私は雪女郎(ゆきじょろう)っていうけど……」
 雅の指に落ち着いた猪口に、徳利を差し向ける。とろとろと、とろみのあるものが猪口を満たした。
「……生姜湯(しょうがゆ)
 口をつけた雅が、ふっと笑う。
「あったまるよ」
「ありがとう。……()けてもいいの?」
 火鉢の炭がぱちりと鳴った。
 部屋は変わらず寒いままだ。
 花を()けたら、きっと凍りついて色を保ったまま春を迎えてしまう。
 そうして、雪解けとともに(しお)れていくのだ。
 博は染み入るように(つぶや)いた。
「よくない。雅が人間でよかったよ」
 強い風が吹いたらしい。窓が鈍い音を立てた。
障子(しょうじ)立てる?」
「少しだけ」
 博は立ち上がると、からりと雪見障子を引き、窓の三分の一ほどを隠した。それからまた、雅の隣に座る。
 火鉢のぬくもりがどうにも遠い。雅が壁になっているからだろうか。
 あまりの音のなさと色のなさに、博は、冬はこういう季節なのだということを思い知る。
 誰もが眠り、誰もが何かを避け、誰もが息を(ひそ)める。そのくせ、耳だけは敏感に音を感じられるよう、(ひそ)やかに(そばだ)てられている。
 雅の身体から冷気が流れているのだろうか。
 何もおかしくない気がした。
 むしろ、それが当然であるようにさえ思った。
 博は、(まつげ)を伏せて猪口に唇をつけている雅の項に指を伸ばした。はらりと零れる一筋の後れ毛に指を軽く絡め、するりと()でる。
「こういうの、(びん)がほつれるっていうんだっけ。白い項に黒い髪が一筋、って」
(いずみ)鏡花(きょうか)十八番(おはこ)の描写ね」
 ふふ、と笑って、雅は手酌(てじゃく)で生姜湯をやろうとした。博はそれをやさしく(さえぎ)り、徳利を受け取って、彼女の猪口に(そそ)ぐ。
「……雪女郎か」
 静かに生姜湯を飲んでいる雅の唇の淡い色。たおやかな冷たい指先。甘い牡丹(ぼたん)が崩れたようなやわらかな腰と背筋の曲線、細い白い首筋、項に一筋零れ落ちた緑の黒髪。
 博は衣紋を抜いた(えり)をなぞった。正絹の(なめ)らかな冷たさが指を伝わる。
 ……これもやはり冷たいのだ。
「雅が遊女じゃなくてよかった。花魁(おいらん)なんて、身請(みう)けできるほどのお金、用意できないだろうから」
「心配しなくても花魁になんてなれないよ。花魁には色も学も芸もいるし、続けていくにも(おあし)がかかる。とてもじゃないけど私には(つと)まらないよ。白粉(おしろい)つけた猫は高いだけあるの」
「猫は猫なんだけど、今回は猫じゃなくて……」
 博は少し言い(よど)んだ。自分でも何故かはわからない。雅を「猫みたい」というのなんて日常茶飯事なのに、何が引っかかったのだろうか。
 ――雪女郎。
 引っかかったのは、遊女でも猫でもなく、雪女郎だ。
 雅がとても冷たいから。
 火鉢の傍にいてさえ静々(しずしず)とした冷たさがどこからか伝わってくるから、彼女の身体が山奥の新雪のような気がしているのだ。
「今日は雅の寝顔、見るのが怖いな」
 とてもきれいだろうから、とは言えなかった。
 雅はうっすらと微笑んだ。淡い唇がやわらかな色を(たた)える。(べに)を差しているわけでもないのに薄紅(うすくれない)に見えるのは、本当に肌が白いだけという理由だろうか。
 彼女の肌は今、冷えているはずなのに。
 それならば唇にだって色はないはずなのに、どうしてだか色づいている。
 だから、やはり女郎なのだろう。
 雪深い山奥、音のない夜、冷気と寒風を引き連れて、白い素足で山小屋を訪れる。『彼女』という災いを回避するためには、いつだって正しい手順を踏まなければならない。
 交わした約束は、けして(たが)えてはならない。
 雪見障子越しに雪はまだ降らない。
 薄ぼんやりとした曇り空が、どこまでも広がっている。
 冷えた(たたみ)と、重たい火鉢と。
 飲み干してしまった生姜湯と。
 昼間なのにどこか薄闇(うすやみ)(ただよ)う部屋。
「怖がらないで」
 雪女郎には似つかわしくない(ほが)らかな笑みを浮かべて、雅は博の頬に軽くくちづけた。
 唇が冷たいと感じたのは気のせいだろうか。
 今夜、博は雅の寝顔を見られないだろう。
 雪に見初(みそ)められた彼女はきっと美しいから、もしかしたら、今夜の雅はひとり寝をする方がいいのかもしれなかった。




end.



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